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act.8月虹ワルツ<130>
西名家では家族の誕生日や祝い事があるたびに、この店で譲二の作るケーキをオーダーしてきた。でも毎年葵の誕生日だけは別。弟の死と強く結びついた日はケーキを食べるどころか、部屋の外にすらまともに出ることが出来なくなる。ベッドの中で丸くなり、葵なりの懺悔に浸って時を過ごすだけ。
荒療治が効く可能性に賭けて、一度だけ譲二にバースデーケーキを依頼したことがあったけれど、それは葵を泣かせ、パニックにさせるだけで終わってしまった。
まさか葵のためにと腕をふるったケーキがトラウマを植え付けるとは思わなかったのだろう。彼はさっき遥に驚かされたのとは比較にならないほど動揺し、そして悲しげに肩を落としてしまった。
頼んだこちらが悪いのだからといくら陽平が謝っても、譲二をしばらく落ち込ませてしまった。まさに全員が不幸になった出来事だった。
胸にじわりと蘇る苦い思い出を抱えながら裏口に向かうと、とっくに外に出ていると思った遥たちが冬耶を待っていた。
「悪いけど、車表に回してきてもらえる?そのあいだ葵ちゃんとお土産探してるから」
彼が“お土産”と称したのが、この店では売り物に出来ない型崩れしたお菓子を指していることは知っている。葵はその提案を素直に喜んでいるようだったが、冬耶は違和感を覚えた。わざわざ来店客がひしめく“表”を迎えの場所に指定したことも。
疑問に感じながらも指示に従って扉を開ければ、遥が何を意図しているかが理解できた。
路地の先に停められたコンパクトカー。薄汚れた黒い車体には見覚えがある。学園を出た時から、少し後ろを走っていた車。遥はそれに気が付いて、適当な理由で葵を屋内に引き戻したのだろう。
住宅街の中にある店には駐車スペースは設けられていない。少し離れた場所にあるコインパーキングまで葵を無防備に歩かせるのを気にして、冬耶に車で迎えに来させるという選択を取ったのだ。
宮岡とカウンセリングを行ったカフェの近くにいた車のものとナンバーが一致する。これは冬耶たちの考えすぎではなく、もちろん奇妙な偶然などでもない。あの記者が懲りもせずに追いかけてきたようだ。
追跡する車を変えたり、こちらにバレない距離を保ったりするような、存在を隠す努力は全く見えない。むしろ気が付いてほしいと言わんばかり。
彼の目的はエレナの死の真相。だから目撃者である葵に当時のことを確認したがっている。いつあの車から飛び出しこちらに向かってくるとも限らない。
無視をすることは出来るが、このまま延々とつけ回され、葵の行動範囲が狭められるのを見過ごせない。
冬耶が車に近づく素振りを見せると、運転席のガラス窓がゆっくりと下がっていく。顔を覗かせたのは、やはりあの男だった。
脂の浮いた肌に、何日も手入れを怠っているような無精髭。顔を見ただけで不快に思うのは冬耶の個人的な感情だけではなく、彼の不潔な見た目が与える印象によるところも大きい。
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