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act.8月虹ワルツ<133>

「彼の連絡先は知りません」 「でも連絡を取る方法はあるだろ?あんたが最近藤沢のオフィスや本家に出入りしてるってことは知ってるんだ」 根岸が以前持ちかけてきた取引条件は、それぞれに秘密を抱えた都古や櫻を売ることだった。だが、今回の話は違う。穂高に当時のことを尋ねる機会がほしい。根岸が求めることはただそれだけ。 この厄介な男を押し付けるような真似をするのは気が引けるが、葵を守るためなら穂高はきっと自ら進んで盾になってくれるような気がする。それに名家に仕え続けている彼のほうが、こんな事態の対処にはよほど手慣れているように思う。 「分かりました。その代わり、今この瞬間から……」 「はいはい、あの子の周りをうろつくなってんだろ?了解。俺はちゃんと約束を守る男だから安心してくれ」 冬耶の言葉を遮って、根岸は親しげな笑顔で手を上げてくる。やけに物分かりのいい態度は、逆に信用に値しない男だという印象を強めた。案の定、彼は車のエンジンを掛けると、去り際にこんな言葉を掛けてきた。 「まぁ、また違うネタで相談させてもらうかもしれないけどな。それは勘弁してくれよ」 反論する隙もなく発進した車の後ろ姿に、冬耶は思わず舌打ちをした。叶うことならあの顔を二度と拝みたくはない。でもきっとそうもいかないのだろう。 駐車場に向かう道すがら、冬耶はすぐに宮岡に連絡をいれた。事の経緯を話し、あの記者を穂高に差し向けるような真似をしてしまったことを詫びれば、彼は冬耶の判断を支持してくれた。 『その男に連絡するよう、アキに伝えておけばいいかな?』 「穂高くんに確認を入れなくて大丈夫ですか?」 『聞くまでもない。葵くんを守るためなら、何だってする覚悟でいるんですから。葵くんが生まれた時からずっとね』 穂高の想いを代弁する宮岡の声が優しく響いた。穂高が今もなお葵を深く愛していることが彼を介して痛いほど伝わってくる。 「先生は“違うネタ”って何を指すと思いますか?」 『……実は、こちらからもちょうど連絡を入れようと思っていたところだったんです』 宮岡は冬耶の質問には答えず、少し間を空けて声のトーンをガラリと変えた。きっといい話ではない。その予感は的中した。 馨が葵の昔の写真を集めて個展を開こうとしている話は聞いていたが、どうやら新作を披露する気でいるらしい。そのための衣装まで誂えているというのだから恐ろしい。 彼の中では葵を手中に収めることは決定事項のようだ。そろそろ本気で動き出すという合図なのかもしれない。葵を捕らえた馨が何をするつもりなのか、なんて明らか。美しい衣装を纏った姿を撮影するだけではとどまらず、葵の全てを征服する気でいるに違いない。 馨が幼い葵を抱えて、見せつけるようにキスをした姿が蘇ってくる。隣人の子供相手に大人げなく嫉妬し、自分の優位性をまざまざと誇示してきた馨の表情は忘れられない。 心の内はドロドロとした嫌な感情に塗れているが、冬耶は一度深呼吸をしていつもの顔つきを取り戻す。葵の前では明るくて優しい兄でいなければならない。

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