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act.8月虹ワルツ<134>
「お兄ちゃん見て、いっぱい貰っちゃった」
遥に肩を抱かれ守られるようにして店内から出てきた葵は、自慢げに紙袋を掲げて見せてくれる。この無邪気な笑顔を守ることが、なぜこれほどまでに難しいのだろう。
「食べ切れるかな?」
「まさか今日全部食べるつもり?日持ちしそうなやつは明日寮に持って帰って皆で食べたら?」
食が細いくせに、葵は譲二や遥の作る菓子には目がない。気持ちだけは立派な食いしん坊の弟を宥めると、素直に“はーい”なんて返事が返ってくる。大人たちの醜い欲望の標的になっているとも知らず、少しも曲がらずに育ってくれていることが冬耶の救いだ。
「お兄ちゃん、これどうぞ」
運転席のシートベルトを締めると、葵は後部座席から手を伸ばしてきた。白い指先が摘んでいるのは少しだけ端が欠けたチョコレート。誘われるままに唇を開けば、小さな塊がポンと放り込まれる。
口の中に広がるほろ苦いショコラの味よりも、唇に一瞬触れた指の温もりがやけに残って仕方ない。そのうえ、葵は自身の指の腹についたココアパウダーを桃色の舌を覗かせて躊躇いなく舐めとってみせた。なんてことのない仕草なのに、妙に目が奪われた。
まるで自分のモノだとマーキングするように、馨が葵の顔中にキスを降らせていた光景は幼い頃何度も目にしていた。葵の唇を初めて奪ったのも彼に違いない。その事実はどうしようもないけれど、葵が次にキスをする相手は自分で選ばせてやりたかった。
だから守り続けていたというのに、結果として一ノ瀬や若葉といった穢らわしい人間に聖域が侵されてしまった。今も目を瞑ればビデオに撮られた映像が浮かんでくる。
誰よりも葵を愛している自負のある自分ではなく、なぜあんな奴らに。
葵の兄になると決めてから押し殺してきた感情は、水面下では着々と育ち、冬耶を蝕み始めている。
今あの夜のように名を呼ばれてしまったら、兄の顔を保つ自信がない。誰にも触れさせないよう、この腕の中に閉じ込めておきたくなってしまう。
どうやら自分は、最近立て続けに起きた件でそれなりに弱っているらしい。とはいえ、己の欲望に負ける獣に成り下がる気はさらさらない。
「あーちゃんも食べるの?お昼ご飯が食べられなくなっちゃうよ?」
「平気、一粒で我慢するから」
冬耶の忠告を笑顔で受け流し、葵は箱から取り出したチョコレートを口に含んだ。美味しいと笑う、ただそれだけで息苦しくなるほどの愛しさが冬耶を支配する。
それを振り払うように正面に向き直って車のエンジンを掛ける。バッグミラー越しに遥と視線が絡んだ。葵には何一つ悟られていないだろうが、彼には冬耶の葛藤が見透かされている気がする。
遥は冬耶が葵にアプローチすることを望んでいる節がある。彼の甘言をいつもきっぱり跳ね除けてきたけれど、もし次に誘われても同じ態度をとることが出来るだろうか。
冬耶の視線を知りながら、見せつけるように葵のこめかみにキスを落とす親友。また胸にじわじわと嫌なものが広がっていく。
いつからこれほど浅ましくなってしまったのだろう。冬耶はハンドルを握る手に力を込め、後部座席で繰り広げられる甘ったるい戯れから視線を逸らせた。
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