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act.8月虹ワルツ<135>

* * * * * * 坂道の頂上にあるマンションは、低層階にも関わらず見晴らしがいい。特に南西向きのルーフバルコニーから臨む夕焼けは圧巻だった。この部屋に引っ越しを決めた理由が目の前の美しい景色だと言われ、葵は大いに納得させられる。 「遥さんが中等部に入る時に引っ越したんだっけ?」 「そうそう、寮生活が始まるから実質父さんの一人暮らしになるだろ?部屋数が多いと手入れも大変になるし、もう少しコンパクトなところに移ろうかって話になって」 遥はこの家を“コンパクト”と表現したけれど、この家には譲二や遥の部屋だけでなく、もう一部屋存在している。それにリビングも、今いるバルコニーもそれなりの広さだ。一体前の家はどれほど広かったのだろう。 頭に浮かんだ疑問は口に出さなかった。前の家は三人で暮らしていたから広かったのだと、自分で答えを見つけることが出来たからだ。 遥が初等部に通っている頃、両親が“お別れ”をして別々に暮らすことになったことは聞いている。遥は時々母親と会ってはいるらしい。冬耶や譲二とそんな会話をしているのを耳にしたことがあるから、関係は悪くないのだと思う。遥にとって避けたい話題でもないのだろう。 でも母親との別れを経験した葵には、迂闊にその領域に踏み込むことが出来なかった。 遥は母親によく似ているという譲二の言葉を聞いて、写真を見てみたいとも思ったけれど、この家に飾られた写真立てにはそれらしい女性の姿が一つもない。だから遥に瓜二つの綺麗な女性を想像するだけに留める。 「パリの部屋も夕焼けが見える向きなんだ。カーテンがないから眩しくて仕方ないけど。俺でもサングラスが欲しくなるぐらいだから、葵ちゃんはかなり辛いかもな」 確かに真正面から夕焼けの光に向き合うと、目がチリチリと痛む。葵のように瞳の色が薄いと、濃い人に比べて光を眩しく感じるのだと以前教わった。自然と瞬きの回数も多くなる。 「でも見てみたいな。遥さんの部屋から見える景色」 「いいよ、いつか遊びにおいで」 葵の瞳を癒すように、遥の指が目元を撫でてくる。優しい手付きと言葉だけれど、葵の胸はきゅっと締め付けられる。遥がまだしばらくはフランスで暮らすのだと実感させられたからだ。 自然と涙が滲んでくるけれど、今ならそれを眩しさのせいだと言い訳できる。 手すりに顔を伏せ気持ちが落ち着くのを待っていると、遥が不意に首筋にかかる髪を指先で掬いあげてきた。そのくすぐったさに、思わず肩が跳ねる。 「そうだ、髪切ろうか」 「……これから?」 遥が日本にいる間のどこかで切ってもらいたいとは思っていたけれど、今は脈絡のない誘いに思えた。 遥と二人でバルコニーに出てきたのは、つい今し方自宅に帰って行った冬耶をこの場所から見送るため。冬耶の乗る車が見えなくなっても、三人で過ごした賑やかな時間の余韻に浸るように夕焼けを眺めていたのだ。

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