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act.8月虹ワルツ<136>

「少し濡らしたほうが切りやすいな。せっかくだからお風呂入ってくる?そのあいだ準備しておくから」 遥の中ではもう決定事項になりつつあるようだ。でも早速とばかりにリビングに戻ろうとする遥を、シャツの裾を引っ張って止めにかかる。 「お風呂は遥さんと一緒に入りたい」 遥の滞在中、ずっと泊まることが出来たらいいが、葵は明日寮に戻らなくてはいけない。平日だってどのぐらい遥に会えるか分からない。だからこそ、一緒に居られるときは片時だって離れたくなかった。 甘えん坊だと笑われるかもしれない。でも遥と離れて一人で浴室に向かうのは寂しくて堪らない。 「やっぱり免疫落ちてるんだろうな。久しぶりだと破壊力凄まじいな」 遥は葵の我儘を聞いて笑うけれど、その笑い方は葵が想像していたものとは少し違って見えた。それに言葉の意味も、話の流れに沿うものとは思えない。 どういう意味かと尋ねるために遥を見上げれば、彼の唇が額に降りてきた。遥と再会してから、息をするようにキスを落とされる。以前もこれほど頻繁だっただろうか。 「じゃあ霧吹きで濡らそう。それでいい?」 葵が何かを言う前に、遥は互いの妥協点を探ってくれる。頷くと、また褒めるように頬に口付けられた。 こんな風に触れられるたび、遥の髪が揺れて彼の香りが鼻腔をくすぐってくる。彼の帰国を知ってからもう数時間が経っていると言うのに、未だに夢見心地のようなふわふわとした高揚感が続いているのはこの香りのせいかもしれない。 遥はリビングの一角にビニールのシートを広げ、その上にダイニングチェアを運んできた。どうぞ、と手招かれて葵はそこに腰掛ける。 「今日はどんな髪型になさいますか?」 美容師になりきっている様子の遥は、葵の首元にタオルとケープを巻きながら尋ねてくる。葵は美容室に行ったことがないから、こんな時どう返答するのが正しいのか分からない。 それに本物の美容室と違って、葵の正面に鏡はない。サイドボードの上の写真立てに並んで、ハサミやクシが置かれているだけ。自分の姿と向き合うのを苦手とする葵のための配慮だった。遥に全てを委ねる選択肢しか葵にはない。 「あ、えっと、おまかせします」 「かしこまりました」 口調やシチュエーションのせいでまるで知らない人と話しているようだ。どこか緊張しながら返答した葵の姿がおかしかったのだろう。遥は笑いながら頷いた。 霧吹きで濡らした髪は何束かに分けてクリップで止められる。遥がいつも仕上げてくれるふんわりとしたシルエットを作るには、こうした丁寧な作業が必要らしい。 幼い頃は陽平や紗耶香が葵の髪を整えてくれていた。二人も慎重にハサミを入れてくれたけれど、遥ほど本格的ではなかった。 「遥さん、本当にプロの人みたい」 「完全に独学だけどな。葵ちゃんの髪で失敗するわけにはいかないから、冬耶で散々練習したし」 初めて冬耶の髪をカラー剤で染めたのも遥だったと聞いたことがある。いきなり金髪になって家に帰ってきた兄を見た時は、あまりにも驚いて逃げてしまったことを思い出した。 あれはまだ葵が登校を始める前。兄が初等部の生徒だった時の話だ。その頃から遥は練習をしてくれていたのだろうか。

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