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act.8月虹ワルツ<137>

遥は葵のために膨大な時間と労力を費やしてくれている。髪を切ってくれるだけではない。葵が授業についていけるようになったのは間違いなく遥のおかげだし、寮で生活していた頃は頻繁に料理を作ってもくれた。 葵は支えてもらうばかりで、何もお返しが出来ていない。健やかに成長することが恩返しと言われたことはあるけれど、そんな言葉に甘えてばかりではいられなかった。 冬耶や遥から生徒会の役員にならないかと誘われ、挑戦すると決心したのは、自分と同じく学園に馴染めない生徒の力になれたらという思いもあった。けれど、少しでも大好きな二人の役に立ちたかったという気持ちが大きい。でも結局面倒を見てもらったのは葵のほう。 だからせめて遥の夢を精一杯応援しなくてはいけないと思った。寂しさなど見せず、遥が葵を心配することのないよう笑顔で見送る。それすらも出来ず、結局たった二ヶ月で彼を呼び戻すことになってしまった。 「……遥さん」 「んー?どうした?」 遥はきっと離れていたあいだ起こった何もかもを知っている。冬耶が全てを話しているはずだ。だから帰ってきてくれたに違いない。元々の予定を前倒してまで。 遥に会えたことが嬉しくてはしゃいでいたけれど、よくよく考えると自分が遥の夢を邪魔していることに気付かされる。 「ごめんなさい」 謝罪の言葉を絞り出すと、ぴたりとハサミの動きが止まった。そして滲む視界の中で彼が棚にハサミを戻すのが見える。 「さっきまで笑ってくれてたのに。一人で何考えてこうなっちゃった?」 遥は葵の正面にやってきて、身を屈める。涙の滲む目元を拭ってくれる手も、涙の理由を尋ねる声音もとびきり優しい。そうされるとますます自分の子供っぽさに情けなくなるのだ。 「遥さんはいっぱい、してくれるのに、何も出来ない。帰ってこさせちゃった。ごめんなさい」 こうして泣いてしまえば、遥に慰められてしまう。頭では分かっているのに、一度思考が負のループに囚われるとなかなか抜け出せなくなる。 「なぁ、葵ちゃん。いつも言ってるだろ?俺の気持ちを考えろって。俺がしたいからしてる。それをどうして葵ちゃんが謝るんだ?」 葵が罪悪感を覚えるたびに、遥は同じことを繰り返し言い聞かせる。 葵と沢山の時間を過ごしたい。遥は全てその想いのもとに動いているのだと言う。葵が授業についていけるようになれば、学校に通うことが出来る。そうすればもっと一緒に居られる。髪を切る時間だってそう。並んで食事をとる時間すら、遥にとっては大切らしい。 「葵ちゃんに会いたかったから帰ってきた。心配でどうにかなりそうだったよ」 そう言って遥が椅子の背もたれに手を付き、顔を近付けてくる。また頬や額にキスを落とされる。そんな予測は外れ、彼の唇は葵の唇に重ねられた。心地の良い角度を探るように数度重なり、そして啄まれる。 遥から唇へのキスを与えられたのはこれが初めてではない。でも離れているあいだに、こんなキスは特別な相手としかしないのだと七瀬から教わった。 遥はどうして葵にキスをするのか。それを確かめたいと思うけれど、心臓がやけにうるさく鼓動を始めて邪魔をする。

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