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act.8月虹ワルツ<138>
「葵ちゃんは?俺に会いたかったんじゃないの?」
「……会いたかった、すごく」
「俺も同じ。だからこうしてる」
それのどこがいけないことなのか。至近距離で真っ直ぐに葵を見つめる遥は、そうして葵の後ろ向きな思考を正そうとしてくる。
「じゃあ、続きしていい?」
葵の涙が止まったのを見計らって確認をされる。
“続き”と聞いて真っ先に思い浮かんだのは、先ほど重ねられた唇の感触。遥には京介や都古がしてくるような深いキスをされたことはない。さっきみたいにあくまで優しく唇を啄まれるだけ。
ここでもし頷いたら、舌が潜り込んでくるのだろうか。それとももっともっと違うことが待っているのか。自分がとんでもなく恥ずかしいことを想像している自覚はあるのに、まるで熱に浮かされたように首を上下に振っていた。
刺激を覚悟して目を瞑ったけれど、遥との距離は縮まるどころか離れる気配がする。瞼をそっと開いて確認すると、彼はちょうどハサミを手に取るところだった。
葵は今自分が髪を切ってもらっている最中だったことを思い出す。勘違いに気が付いて、ただでさえ火照っていた頬がカッと熱を持つのを感じた。目の前に鏡がなかったことに感謝したくなる。真っ赤になった自分の顔に向き合うなんて耐えられない。
不自然に赤くなった葵の変化に気が付いていないわけがないのに、遥がそれを指摘してくることはなかった。元通り、葵の髪を一房ずつ掬って整えていくだけ。それが有難くもあったけれど、余計に自分が惨めになるような居た堪れなさを感じた。
作業に集中し始めた遥に倣って、葵もただ黙って髪が短くなっていく音に耳を傾けた。一度芽生えた熱はなかなか引いてはくれなかったけれど、髪を留めていたクリップが一つ残らず外され、全体にクシを通される頃には大分冷静な思考を取り戻せるようになっていた。
「どう?触ってみてごらん」
ケープが外され、促されるままに己の髪に手を伸ばす。連休中に一度聖の手で前髪だけは整えてもらったけれど、伸びていた襟足が短くなって首元が涼しくなった感覚がする。サイドの髪も、耳に掛けずとも邪魔にならない長さになっていた。
「すごくさっぱりした。ありがとう、遥さん」
「どういたしまして。またいつでもご来店ください」
手際よく片付けをする遥は、葵の反応を見て満足げに笑った。
窓の外はもうすっかり日が暮れて、濃紺の空が広がっている。いつもなら夕飯を食べ始めてもおかしくない時間だけれど、今日は昼食を食べるのも遅かったし、そのあと冬耶と三人でお喋りをしながら譲二の店のお菓子や、遥がフランスから持ち帰った土産物をつついていたのだ。正直まだ全くお腹は空いていなかった。
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