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act.8月虹ワルツ<139>
「父さん、今日は早く帰ってくるから一緒に夕飯食べようって。っていっても九時近くにはなると思うけど、どうする?それまで待てそう?」
遥の提案は願ってもないことだった。譲二の帰宅まで、あと二時間弱はある計算だ。さすがにお腹の容量にも空きが出てくるとは思う。だからさっきは一度先延ばしにした入浴を済ませてしまおうという提案に素直に頷く。
「葵ちゃん、どの匂いにする?」
浴槽に湯が溜まるのを待つあいだ、遥はフランスで買ったというバスソルトの小瓶を三つ並べて見せてくれた。水色はサボン、ピンク色はストロベリー、黄色はグレープフルーツ。それぞれいい匂いだったけれど、葵の今日の気分は真ん中に置かれた苺の香り。
「あんなに甘いの食べたのに、まだ足りない?」
「ちがうよ、お腹が空いてるわけじゃない」
遥のからかいに反論してみたけれど、瑞々しく熟れた苺のイメージ通りの甘さに惹かれたのは事実。
「困ったな。匂いまで美味しそうになっちゃうのか」
「遥さんはお腹空いてるの?」
瓶の蓋を開けてもう一度苺の香りを楽しむ葵を、遥が背後から抱きしめてくる。お菓子に手を付けていたのは葵や冬耶ばかりで、そういえば遥はあまり手を伸ばしていなかった気がする。もしかしたらお腹を空かせているのかもしれない。
「そうだな、ずっと腹ぺこ。でもまだ早いから」
「ちょっとだけ食べる?」
「ううん、我慢できるから平気」
遥はそう言って腕に力を込めてくる。我慢しなくていいのに、そう言いかけて葵は口を噤んだ。こんなセリフを以前口にしたことを思い出したからだ。
でもあの時京介や都古が言った我慢と、遥が今口にした我慢は全く意味合いが違うはず。だって遥はただ食事のことを話しているのだから。
「遥さん?」
確かめるように見上げれば、そこにはいつも通りの笑顔がある。優しくて、温かくて、そして彼の作るお菓子のようにとびきり甘い。
「いつからお腹空いてたの?」
「さぁ、いつからだろう?強いて言うなら、出会った時からずっとかな」
「お昼ご飯食べたのに?」
「まだ何も食べてないよ。あんなの、味見のうちにも入らない」
家にあった材料で遥が作ったパスタを二人で食べたはずなのに、おかしなことを言う。お菓子だって、葵と比べて食べていないというだけで、一口も食べなかったわけではない。
筋肉質な冬耶と並ぶと随分細身に見えるけれど、遥は華奢な部類には入らないと思う。顔立ちは中性的だが体つきは当然男性的。一人前も満足に食べきれないほど少食の葵に比べれば食欲もあるとは思う。でも昼食を味見にもならないと一蹴するほどの大食漢だっただろうか。
一見噛み合っているようで、どこかがおかしい。不可思議な会話の答えを探すように遥を見つめても、彼はクスクス笑うだけ。それ以上のヒントはくれなかった。
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