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act.8月虹ワルツ<148>
* * * * * *
自宅とはいえ長期休みぐらいしか帰ってこない自室には、寮ほど思い入れはない。室内に置いてある家具もベッドとテーブルぐらいで、殺風景と感じるぐらいだ。それでも葵にとっては遥の部屋というだけで特別な場所になるらしい。ベッドに腰掛けた葵は、投げ出した足をパタパタと跳ねさせてはしゃいだ様子を見せている。
「明日何時からの映画行くんだっけ?」
京介との約束を確認すると、映画館のある駅に九時に待ち合わせをしたと返ってきた。この家からは三十分ほどで着くはずだから、と明日の段取りを思い描いた遥とは違い、葵は急に表情を曇らせて“まだ寝たくない”と訴えてきた。
遥がクローゼットから寝具を引っ張り出していたせいで、このまま寝かしつけられてしまうと不安になったらしい。
入浴はすでに済ませたし、帰宅した譲二と遅めの夕食を楽しんだあとすぐに歯も磨かせた。寝る準備はすっかり出来てしまっている。でも葵は遥ともっとお喋りがしたいようだ。
「おいで、葵ちゃん」
マットレスの上に重ねた布団を背もたれにして座り葵を手招くと、小さな体は素直に抱きついてきた。その拍子に甘ったるいストロベリーの香りが鼻先をくすぐってくる。自然とこの香りに満たされたバスルームでの記憶が脳裏を過ぎる。
写真や動画で補給していたとはいえ、二ヶ月ぶりに会った愛しい存在を前にして今まで通りの自制が効くか、正直なところ不安が全くなかったと言えば嘘になる。葵にはまだ唇を触れ合わせるだけのキスまでしか与えていないけれど、肌を啄むぐらいは許されるだろうか。そんなことが頭を過ったのも事実。
けれど、浴室で一糸纏わぬ姿になった葵を見て湧き上がったのは情欲などではなかった。二週間近く経ってもまだ肌に浮かぶ陵辱の痕跡。葵の身に起きたことを聞いて覚悟はしていたが、実際目の当たりにするのは想像以上に辛いものがあった。
葵は遥の気も知らず、少し身長が伸びたかもなんて可愛い見栄を張って笑わせてくれたから表情は保てたけれど、そうでなかったらきっと葵を困らせる顔をしてしまっていたと思う。
「どうしよう。ギュってしてたら、眠くなっちゃうかも」
言葉とは裏腹に、葵は遥に回した腕の力を強めてくる。遥の肩口でぐりぐりと目元を擦ってくるあたり、すでに眠気が訪れかけているようだ。
「俺は時差ボケでまだ全然眠くないけど、葵ちゃんは無理しないで眠ってもいいよ。明日もデートするんだし」
京介に先を越されていたせいで明日一日中葵と過ごすという野望は阻まれたが、午後は二人きりで過ごすと約束していた。何をするかは決めていないけれど、以前話した通り有澄のバイト先であるアンティークショップに顔を出してもいいし、これからの季節に向けて新しい帽子を買いに出掛けてもいい。ただひたすら葵を甘やかしてやりたいと思っている。
「でも、もっと話したい」
「沢山お喋りしたのに?どんな話がしたい?」
凭れてくる葵の髪を梳いてやりながら尋ねると、葵は困ったように眉をひそめた。
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