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act.8月虹ワルツ<150>
「なぁ、葵ちゃん。このあいだお願いしたこと覚えてる?」
遥の肩に頬を預けて微睡みだした葵の様子を見て、今夜叶えたかったもう一つのことを口にした。葵と深い話をするのは明日以降に回すとしても、これは先延ばしにしたくない。
「お願い?」
「うん、冬耶にしたみたいに、俺にもして欲しいって。たくさんしようとも約束した気がするんだけど」
眠そうな葵の記憶を呼び起こすために、その時のやりとりを細かく伝えていく。すると、こちらを見上げる蜂蜜色の瞳が戸惑うように揺れ、頬の赤みが増す。
「忘れちゃった?」
「……ううん、覚えてる」
答えながら、葵は遥の肩に手を掛け、少しだけ腰を浮かした。その瞬間、葵の唇が頬に軽く触れる感触がする。あの夜冬耶に与えたような幼いキス。これが葵の精一杯。だから遥も真似するように触れるだけのキスを頬にお返ししてやる。でもそこで終わり。
顔中にキスを降らされる覚悟をしていたのだろう。それ以上唇が落ちてこないことに気が付いた葵は、一度は閉じた瞼を開けて不思議そうにこちらを見上げてきた。
「次は葵ちゃんの番。順番にしよう」
葵にこんなことを提案するのは初めてだ。だから困った顔をされることは予想していた。でも葵が迷った末に遥の期待に応えてくれるとも信じている。
先ほどキスを受けたのとは反対の頬を差し出せば、葵はゆっくりと唇を当ててきた。遥のシャツを掴んでくる手から小さく震えが伝わってくる。慣れないことをする緊張か羞恥か判断はつかなかったけれど、懸命に遥を受け入れようとしてくれている。
互いにキスを贈り合うたびに、葵の背に添えた手の平が拾う鼓動が速まっていくのが分かる。
以前は照れる素振りは見せつつも、キスは挨拶だと疑わずに無邪気に受け入れていたように思う。でも今は葵が遥を性的に意識しているのだと感じさせた。髪を切っている最中に見せた熱っぽい表情でその疑念は生まれたが、こうしてキスするたびに確信へと変わっていく。
「他にもして欲しいところあるんだけど。意地悪してる?」
頬にばかり口付けてくることを咎めるような台詞を耳元で囁けば、葵が一層赤くなる。何を求められているか、きちんと理解している証だ。
いくら口説いても全く手応えがない頃もそれはそれで面白かったし、可愛かったけれど、成長の兆しを見せられるともっと迫りたくなってしまう。
「特別な人とするやつだって、七ちゃんが……」
「俺は特別じゃない?」
「特別、だと思う。でも正解が分からない。七ちゃんは綾くん一人だけって言うから」
泣きそうな顔で言い訳する葵に、彼の抱える悩みを察することが出来た。
遥や冬耶という邪魔者が消えたおかげで、京介たちだけでなく、生徒会の役員や後輩たちからも踏み込んだスキンシップをされ始めたのだろう。その様子を見兼ねた七瀬がアドバイスをしてくれたようだ。
「葵ちゃんにとって本当に特別な相手が誰か、沢山悩んでごらん。いつかきっと答えが見つかるから」
「……悩むの苦手」
「ハハ、まぁ得意な人はいないよ」
素直に難しがる葵に思わず笑いが溢れてしまう。ようやく一歩大人に近づいたと思ったのだけれど、まだ恋愛を理解する日は遠いのかもしれない。それならもっと違うアプローチをしてみようか。遥はそう思い立って、再び葵との距離を縮める。
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