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act.8月虹ワルツ<160>
「そんなに怒るなって。“葵くん”って名前に聞き覚えあったから、気になってっちゃってさ」
彼の口ぶりや視線からは本当に葵に対して強く興味を持っているのだと窺えるが、その理由が分からない。京介はますます苦い顔になって、一度葵を振り返ると絶対にここから動くなと言いつけてきた。
葵が頷くのを待って、京介は祐生を強引に離れた場所へと誘導していく。京介は怒っているようだが、相手は笑顔を崩さない。京介のそんな反応まで楽しんでいる風に見えた。
「ごめん、葵。もう行こう」
一人で帰ってきた京介は相変わらず苛立っていた。でも普段人前では嫌がるのに手を繋いでくれることを嬉しいと感じてしまう。映画館の方角へ歩き出した京介に着いていきながら背後をちらりと振り返ると、そこにはまだ祐生がいて、にこやかに手を振っていた。
「あの人、誰だったの?」
「バイト先の店長」
その答えで、京介が敬語混じりの口調で接していた訳が分かる。でもどうしてそんな相手が葵に会いたがったのかが気になる。
「昨日お前とのメッセージ見られた。で、待ち合わせ場所とか時間把握された。まさかあの夜型人間がこの時間に出て来るとは思わなかったから、完全に油断してたわ。場所変えればよかった」
葵が尋ねる前に、京介がこうなった経緯も話してくれる。大体は理解できた気がするが、まだ疑問は残る。
「“聞き覚えがある”って、どういうこと?」
「さぁ、俺がどっかでお前のこと話したのかもな」
急に曖昧になった返事。真偽を確かめるために京介を見上げてみたけれど、そこには相変わらず険しい顔があるだけだった。
高校に上がってから京介はバイトを始めたけれど、飲食店であるという情報以外、店の名前も場所も何一つ教えてくれない。店長の名前だってさっき初めて知ったばかりだ。
こうして二人で出掛ければ、自然と離れていった距離が縮まると思っていたけれど、そう簡単な話ではないのかもしれない。
駅から屋根続きの場所にある商業施設。その三階にある映画館は、休日だけあって沢山の人で溢れている。かろうじて空いていた真ん中寄りの席を選んでチケットを買い、二人で大きなサイズのアイスティーを一つ注文した。二時間の映画のあいだに一人で飲み切る自信がなくて、京介と一緒に居る時はこうしてシェアをするのがお決まりになっている。
京介が好む炭酸飲料やコーヒーは苦手だし、葵が好きなジュースは京介には甘すぎる。相談の結果、中身はアイスティーに落ち着いた。でも今度はガムシロップの量で意見が割れてしまう。
「おい、全部入れるなよ」
「えー、何個ならいい?」
「一個に決まってんだろ。ほら、残りは元に戻しとけ」
葵が手の中にあと二つ、ガムシロップを隠し持っていたことはバレていたらしい。京介に見つからないようにこっそり入れてしまおうと思ったのだけれど、失敗してしまった。
「一個じゃ苦いよ」
「甘党。十分だっつーの」
叱るようにキュッと頬を抓られるけれど、痛みは感じない。二人だけでこんな風にじゃれ合う時間を懐かしいと感じてしまう。京介も同じ気持ちで誘ってくれたのだろうか。確かめるように彼を見上げれば、少し前まで見せていた苛立ちをすっかり取り払った笑顔がそこにあった。
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