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act.8月虹ワルツ<162>
* * * * * *
演奏に没頭する意識を現実に引き戻す軽快な電子音。櫻はすぐに鍵盤を叩くのを止め、サイドテーブルに置いた携帯に手を伸ばす。
邪魔をされるのが不愉快で練習中は基本的に振動さえ起きないようにしているのだけれど、唯一メッセージや電話の着信音が鳴るように設定にしている人物がいる。
“ちゃんとごはん食べてますか?”
そんな言葉と共に、なぜかハンバーガーの写真が添えられている。朝食にしては重たい内容だと思ったが、時刻が既に正午を回っていることに気が付いた。一度ピアノに向き合い出すと、時間の感覚が失われてしまいがちだ。
「そうか、ランチね。どこに行ってるんだろ?」
写真の背景から見える店内は、アメリカ西海岸のスタイルで統一されている。いわゆるファストフードチェーンの店舗ではないようだ。こんがり焼けたバンズから溢れそうなほど分厚いパティや色鮮やかな野菜が食欲をそそる。そういえば、目覚めてから紅茶を一口含んだ以外は何も口にしていなかった。
「こんな大きいの食べ切れるのかな」
小さい口を懸命に開けてかぶりつく姿を思い描くと笑えてしまう。それに、一緒に映画を見に行くと言っていたあの幼馴染に手伝ってもらうことも容易に想像出来る。
“今食べてるよ”
櫻の食事事情を心配する葵を安心させるため、ちっとも真実でない返事を返す。するとすぐさま、写真を送ってほしいとやり返されてしまった。どうやら櫻は相当信用がないらしい。
「さすがにこれ送ったら怒られるかな?」
室内を見渡しても、すっかり冷めた紅茶が注がれたティーカップぐらいしか見当たらない。葵に構われる心地よさをこの一週間で覚えてしまったが、過剰に心配を掛けたいわけではない。
櫻は悩んだ末に食堂に向かうことに決めた。練習時間は惜しいが、こんなことで葵の信用を失うほうがもっと勿体なく感じてしまう。
廊下に出ると、まるで見計らったかのように隣の部屋のドアが開く。
「いつ僕のストーカーになったの?」
「ストーカーか。そう言われても否定は出来ないな」
からかうつもりで声を掛けたのに、忍はあっさりと受け入れてみせた。ということは、櫻に何か用があって部屋を出るタイミングを合わせたのだろう。
「音が途切れたから、訪ねようか迷っていたんだ」
「何か用?」
「あぁ、葵のことで少し」
生徒会の活動に関することなら今日が日曜だということを理由に断るつもりだったけれど、葵の話なら別だ。
「それなら食堂じゃないほうがいいよね」
「食事をするつもりだったのか?」
「葵ちゃんに怒られちゃうからね」
葵の言うことを聞くということは、葵を差し向けた忍の目論見通りということでもある。それが少し不服だったが、忍は櫻の答えにどこか安堵したような目を向けるから、文句を言うのはやめてやった。
忍と相談した結果、学園の食堂スタッフに二人分の食事を運んでもらうことになった。こんな待遇が受けられるのも、生徒会役員の特権と言えるだろう。
ほどなくして届けられた日替わりのランチセットをテーブルに並べ、向き合うようにソファに腰を下ろしてようやく忍は本題に入った。
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