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act.8月虹ワルツ<163>
「演奏会に葵を連れて行こうか迷っている」
「葵ちゃんを?」
葵の父親や週刊誌の記者が動き出したとか、そういった類の話題だと予測していたのだが、忍が切り出したのは全く違うベクトルの話だった。
「応援をしに行きたいと言っていてな」
「応援ねぇ。なんか本当に旗とか持ってきそうで怖いんだけど」
表向きは月島家の支援者たちを集めて日頃の感謝を表す会ではあるが、その実情は性根の腐った連中が自分の活動を一番に贔屓してもらえるよう支援者に己を誇示し、媚を売るための場だ。
そんな会場に、ただ純粋に櫻を応援するつもりの葵が紛れ込むシチュエーションは想像する分には面白い。
「お前だって、葵が来ることは嫌ではないんだろう?」
「僕個人の感情だけで言うなら、確かに嫌ではないよ」
「なら何が問題だ?」
忍は食い気味に尋ねてくる。この件については忍のほうが慎重なスタンスをとっていたはずだというのに、彼の心境を変化させることでもあったのだろうか。
「僕の噂話、葵ちゃんに聞かせたくないんじゃなかった?」
「俺がガードするさ」
「そこは変わらないんだ。別に聞かせたっていいのに」
忍は苦い顔をするけれど、むしろ身の上話を説明する手間が省けるとすら思ってしまう。脚色はされているが、櫻が不倫の末に生まれたというのは紛れもない事実だ。隠すつもりもない。
「葵ちゃんとデートしたいなら、もっと楽しいところに連れてってあげたら?忍だって、せっかくの休日をこんなことで潰したくないでしょ。僕の演奏なら毎日嫌ってほど聞いてるんだしさ」
櫻の部屋を挟んでいる忍と幸樹には迷惑を掛けている自覚はある。忍にいたっては、中等部から五年間ずっと同室だった。櫻のピアノなんて、とっくに聞き飽きているはずだ。いくら家同士の付き合いとはいえ、格下の月島家のイベントに律儀に参加せずとも構わない。
「葵が行きたい場所に連れて行ってやらないと、意味がない」
「そんなに来たがってるの?何と勘違いしてるんだろ」
定期演奏会という響きだけで、葵は一体どんな楽しいものを想像しているのだろうか。お遊戯会とか文化祭といったそこに何の利害関係も存在しない平和な場を期待しているとしたら、それは会場に足を踏み入れた瞬間簡単に崩れ去るに違いない。
「葵に心配を掛けるような言動をとったのはお前自身だろう」
「心配?……あぁ、僕がちゃんと演奏出来るかどうかってことね」
一度集中し始めると、食欲や眠気を感じる暇もなく演奏に没頭してしまう。疲労を自覚する頃にはすでに手遅れで、貧血を起こしたことは一度や二度の話ではないし、バスタブに沈みかけたこともある。でもいつだって本番は完璧にこなしてきた。心配は無用だ。
「お前が辛い時に、傍に居る存在でありたいらしい」
「それ、プロポーズみたいに聞こえるね。嬉しいけど、別にステージに立つことを辛いとは思ってないんだよね」
辛いどころか、演奏を終えたあと悔しがる親戚一同の顔を見るのが楽しみなぐらいだ。それは決して強がりではない櫻の本心なのだけれど、忍の表情は固いままだ。
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