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act.8月虹ワルツ<166>
「可愛い葵ちゃんとデートしたくないの?」
「どんな格好をしていても可愛いだろう」
少なくともいつぞやのデートでめいっぱい愛らしいワンピースを着せた櫻の趣味ではない格好だが、忍は全く気にしていないようだ。見た目の良い相手ばかりを選んで遊んでいた人間の言葉とは思えない。人は恋をするとこれほど変わるのか。
「……何がおかしい?」
バレないように笑ったつもりだったが、恋に盲目な彼は案外目ざとく咎めてくる。
「忍に“好きな人が出来た”って言われた時のこと思い出してた」
「またその話か」
櫻がこうしてからかうことを嫌がる忍は、少しムッとして言い返してきた。誰かを愛するなんて性分ではなかったのだからお互い様だというのが彼の言い分だ。
互いがそれぞれ葵と出会い、恋に落ちた。まさかこんな風にライバル関係に陥るなんて、数ヶ月前なら想像もしていなかったのに。
「ねぇ、忍。ぬか喜びになると可哀想だから言っておくけどさ、どうせ西名さんに止められると思うよ」
葵にどんな格好をさせようかと悩み始める忍に、櫻はそもそもこの計画が無謀であることを切り出した。こちらが引くぐらい過保護なあの兄が、少しでも不安要素のある場所に葵を連れ出す許可なんて出すわけがない。
だが忍は勝ち誇った顔でこちらを見つめ返して来た。
「俺の背中を押したのは誰だと思う?」
「西名さん、なわけないよね?」
「あぁ、違う」
それでは誰が、と考えてすぐに思いつく。冬耶と唯一渡り合える人物が昨日帰国した知らせは櫻も受けていたからだ。
「なんで相良さんが?」
「さぁな。でもきっと成功する。そう思わないか?」
ようやく忍が前向きになった理由が理解できた。遥という強力な後ろ盾を得て心変わりしたのだろう。
「そういうのは葵ちゃんを誘ってから言いなよ」
いくら本人が演奏会に来たがっていたとはいえ、忍の親戚のフリをすることや変装をすることを前提とはしていない。それが条件だと言われれば尻込みすることだって十分に考えられる。
でも余裕を崩さない忍は思いがけないことを言ってきた。
「誘うのは櫻、お前だよ」
「……は?なんで僕が?連れてくのは忍でしょ」
今までの話は一体なんだったのか。さっぱり理解出来ない。
「お前に内緒で来る、という選択肢は葵にはないだろうから」
以前行きたいと言われて断った実績がある。葵の性格を考えれば、櫻にバレて怒られることを恐れるだろうから、忍だけの手引きを受けてこっそりやってくることを良しとしないとは櫻も思う。
「葵を招待出来たら、俺からさっきの作戦を話すよ」
「ちょっと待ってよ、誘いたいのは忍のほうだよね?」
勝手に話を進められても困る。でも忍は“葵に来て欲しいだろう?”なんて不適な笑みを投げ返してきた。足を組んでソファに背を預ける姿はいつも以上に彼を傲慢な王に仕立て上げる。
「葵のために弾く。そう考えたら、少しは楽しい予定になるんじゃないか」
自分を蔑む親族やその取り巻きを見返すため。そんな目的でしか鍵盤に向き合ってこなかった。悔しがる彼らの顔を眺めることを“楽しい”と感じていたけれど、忍が言っているのはきっとそういうことではないのだろう。
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