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act.8月虹ワルツ<167>

食事を運んでくれたお礼として葵を傍に座らせ、ピアノを弾いてやる時間は櫻にとって不思議なほど心を穏やかにさせるものだった。だから遠い記憶になっていた“住吉櫻”の時代の話までしてしまったのだと思う。 あの時、葵から口付けてきたことも思い出す。櫻に同情した結果の行動だったのかもしれない。それでも葵が能動的に仕掛けた初めてのキスは櫻の心を満たしてくれた。 一瞬でも隙を見せれば四方八方から矢が放たれるようなステージの上。そこに立つことを怖いだなんて思いもしない。けれど、月島家にこれっぽっちも忖度することのない葵がその場に居てくれたなら。純粋に櫻を労う拍手が送られたなら。 想像するだけで、なぜか胸が締め付けられる思いがする。でもそれは苦しいとか辛いとか、そういった負の感情とリンクする痛みではない。葵と接し始めてから時折櫻を襲う甘美な痛み。それを無理やり言葉で表現するなら、愛とか恋とか、そういう陳腐なものになるのだと思う。 言いたいことだけ言ってすっきりした様子の忍は、食事を終えると機嫌良く部屋を出て行ってしまった。残された櫻は机上に残ったままの食器を見て、葵に送るための食事の写真を撮り忘れていたことにようやく気が付いた。 「まぁいいか。食事したってことは分かるだろうし」 写真を送ると数分でランチの相手を問うメッセージが返ってくる。二人分の食器を見れば当然浮かぶ疑問だ。 櫻は一度は忍と打った文字を消し、“傲慢眼鏡男”と入力し直す。いいように転がされた腹いせだ。でも葵はそれに対し、頭にクエスチョンマークを浮かべたうさぎのスタンプを送ってきた。忍だと伝わらなかったのか、それとも忍をなぜそんな風に表現したのかという疑問の意味か。まぁ想定通りの反応だ。 なんにせよ問題は、予想外に課せられた試練。演奏会が開催されるたび、忍や奈央に招待状を渡すことには何の感情も必要ない。でも葵に渡すのは全く事情が違う。 夜空を切り取ったような色をした封筒は定期演奏会のためにデザインされた招待状。今回は出席を辞退した奈央のおかげでこの一枚だけ、手元に残っていた。 中に入ったカードには日時と会場、そしてタイムラインが記されている。ただそれだけの内容だ。わざわざこれを渡さなくたって、忍の連れなら手ぶらで入場出来るはずだ。 でも言葉で誘いを掛けるより、これを葵に渡すほうが櫻にとってはハードルが低い。今夜から同じフロアでの生活が始まるのだし、渡すチャンスはいくらでも見つけられるだろう。 いや、葵の部屋の扉に勝手に挟んでおけばそれで済む話か。考えれば考えるほど、つい自分を甘やかす卑怯な手段を思い付いてしまう。 「あーもう、あのクソ眼鏡」 葵に送ったよりも更にシンプルで子供じみた悪態が口をついて出てくるが、忍の言葉にロクに言い返せず黙るしかなかった自分が悪いことは分かっている。 櫻は苛立ちを紛らわすように再びピアノの正面に腰を下ろした。気を鎮めるにはいきなりゆったりとした調子の曲を選ぶより、思いの丈を全て注ぎ込めるような情熱的で激しいもののほうがいい。 午後の一曲目には、以前忍からうるさいと文句を言われた曲を選んでみた。今度の演奏会で弾く曲目ではない。単に櫻の気晴らしと、隣室の彼への嫌がらせだ。 葵が寮に戻ってくる頃には、彼が穏やかに眠れるような子守唄のような曲を弾いてやりたい。だからそのためにも、思い切り苛立ちを発散させなくては。そんな大義名分を掲げて繰り返し弾き続けると、隣室の窓が勢いよく閉められる音が聞こえてきた。 どうやら嫌がらせは成功したらしい。櫻は満足げに笑うと、ようやく今回の課題曲へと曲目を変更させるのだった。

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