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act.8月虹ワルツ<172>

「八月にまた帰ってこようと思ったんだけど……それも嫌?」 自分の帰国を引き合いに出すのも卑怯だとは思う。葵が遥に会いたがることなんて聞かなくても明らかなのだから。 「嫌なわけ、ないよ」 葵は俯いたまま絞り出すように返事をする。 「じゃあまたデートしよっか」 これ以上はむやみに葵を追い詰めてしまうだけだろう。遥は葵が無理やり塞いでいる心の傷に踏み入るのを切り上げ、慰めるように手を握ってやった。 葵を連れてカウンターに戻ると、湯気が立ちのぼるカップが三つ並んでいた。鳥がモチーフになった絵柄が入ったそれらは、恐らく店内に並んでいるものと同じ、ヴィンテージの陶器だろう。ただ飾るだけでなく、躊躇いなく実際の生活で利用するところが有澄らしい。 カウンターを挟むように置かれたベルベット地のスツールは遥たちのために有澄が用意したもののようだ。営業中の店内で堂々とお茶会を始めていいのかは気になるが、店員が誘うのだから遠慮する理由はない。 それから有澄とは珈琲一杯分のお喋りを楽しんだ。葵の気持ちが沈んでいることを察したのか、有澄は聖や爽の幼い頃の話を聞かせて笑顔を取り戻させてくれた。それに生意気で悪戯好きな二人に散々振り回された有澄のエピソードは、遥のことまで大いに笑わせてくれるものばかりだった。 全員のカップが空になった頃、ステンドグラスが嵌め込まれた窓を叩く雨音が弱まってきた。店を出るタイミングとしてはちょうどいい。 「さっきの話、聖ちゃんと爽ちゃんには内緒ね。多分二人は藤沢ちゃんには格好つけたいだろうから」 カウンターから出て店先まで見送りにきた有澄は最後までそう言って葵を笑顔にさせ続けてくれた。手の掛かる従弟の面倒を見ていただけあると思わせる。クラスメイトとして接していた時には見えてこなかった一面だ。 「そろそろ帰ろうか」 開いた傘に葵を招くと、切ない目が向けられた。まだ遥と別れたくない。そんな気持ちが痛いほど伝わってくる。 「どうした?」 葵が主張したいことが分かっていて確かめる行為を冬耶は意地が悪いと表現するけれど、別に葵を苛めたくてやっているわけではない。 出会ったばかりの頃の葵は、いつも冬耶に気持ちを代弁してもらっていた。声を失っていたのだからやむを得ない部分もあったが、少しずつ話せるようになっても思っていることを口に出すのが苦手なままだった。馨から施されていた躾の名残もあるのだろう。 だから遥は先回りをして葵の気持ちを汲み取りすぎないように心掛けている。そうやって甘やかす役目は冬耶一人いれば十分だ。 「……もうちょっとだけ、一緒がいい」 控えめではあるけれど、こうして葵に我儘を言わせることが出来てきた。まずは葵の信頼を勝ち取ることから始めたことを考えると、随分長い道のりだったと思う。 「じゃあゆっくりお散歩しながら行こうか」 遥が差し出した腕に手を絡めてくる葵から寂しさは消えない。でも限られた時間をめいっぱい楽しむために気持ちを切り替えようと努めている様子が垣間見えた。 道端の紫陽花が蕾を膨らませているのを見つけて、ようやく葵の笑顔が曇りのないものになる。 「満開になった紫陽花も遥さんと見たいな」 その時期まで日本に留まってほしいという意図で告げた訳ではないのだと思う。そんな我儘が遥を喜ばせることも葵はまだ理解していない。 雨粒を纏って煌めく蕾を眺めるのに夢中で、葵の頬はすっかり無防備な状態。だから周囲からは見えないように傘の向きを調節して、キスを贈ってやった。葵がもっと我儘を言えるような日が早く来るように。そんな願いを込めて。

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