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act.8月虹ワルツ<175>

通用口にも鍵は掛けられていなかった。静かにドアノブを開き中の様子を窺うと、奥から何か言い争うような声が聞こえてくる。“やめろ”と声を張り上げているのは間違いなくここの主人。 慌てて声のする部屋の扉を開くと、そこには予想以上に酷い光景が広がっていた。 チケット売り場と通じている事務室のドア前で大柄な男と館長が揉めている。それだけならまだ冷静でいられたが、ドアの上部に付いたストッパーに掛けられたロープと、足元に転がる椅子で嫌でも過去目の当たりにした光景が蘇ってしまう。 「爺さん、大人しくせぇって」 関西弁の男は声を荒げ、必死に抵抗する館長の体を押さえ込んでいる。こんな状況に至った経緯は全く分からないけれど、止めなければ間違いなく館長は殺される。 「その手を離せ」 穂高よりも十センチは優に背の高い男の逞しい腕を掴むと、突然現れた第三者の存在に驚いた顔を向けられた。真正面から見据えると、相手が思ったよりも若いことを知る。それにどこかで見覚えのある顔だった。 「ちょ、アホ、離したら爺さん死ぬわ。ちゅーか、ロープ外して」 「はい?」 「せやから、はよ外せ、それ」 男が館長を自殺に見せかけて殺めようとしていたのではないのか。疑問が浮かぶが、彼の指示に従うことに異論はなかった。穂高がストッパーに括られたロープを外すと同時に男が息を切らして床にへたり込んだ。彼の腕に抱えられていた館長の体も一緒に倒れ込む。 「館長さん、一体何があったんですか?」 「……ほだか、くん?なぜここに」 穂高の存在にようやく気が付いた館長は、喉元を押さえながらこちらを見つめてくる。その顔つきは以前ここを訪れた時よりも明らかにやつれた印象を受けた。 「まずはこの状況を説明していただけませんか」 館長の問いに対する答えなんて、わざわざ言葉にするまでもない。休日に思い出の場所を訪れた、ただそれだけだ。だから穂高は再び質問を重ねる。でも館長は気まずそうに視線を逸らし、黙り込んでしまった。 この場にいるもう一人の男も、額に浮かんだ汗を拭って荒い呼吸を整えようと努めている。穂高の相手をする余裕はまだなさそうだ。 少しでも状況を把握するために周囲を見渡すと、チケット売り場になっているデスクの上に封筒が二つ並んでいることに気が付く。一つは“遺書”、そしてもう一つには穂高の名が記されていた。 「拝見しますね」 断りなく読むのは憚られて形式的に声を掛けてみるが、返答はなかった。 遺書の中にはこのプラネタリウムが立たされていた窮地について詳しく説明がなされていた。設備の維持費に掛かるお金を借りていることは知っていたが、まさかその相手が悪質な業者だったとは。 然るべき機関に訴えれば、どうにでもなったはずだ。一言相談をしてもらえればここまでの金額に膨れ上がる前に救ってやれたのに。一人で抱え込んだ挙句に死を選ぼうとした館長にも、気が付いてやれなかった自分にも腹が立つ。 穂高宛の手紙には、こんな結末を選んだことへの詫びと、葵に会いに行ってほしいという最期の願いが綴られていた。例え葵の中から穂高に関する記憶全てが消えてしまっていても、また出会い、初めからやり直せばいいだけだという言葉は穂高の胸をひどく締め付ける。

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