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act.8月虹ワルツ<176>
「いやぁ、お兄さんが来てくれなきゃアカンかったわ」
便箋を元通りに封筒に戻していると、やっと呼吸が落ち着いたらしい男がこの場にそぐわない明るい声で話し掛けてくる。
「こんな細っこい爺さんでも、さすがに抱えっぱなしはしんどくてな。そろそろ諦めようかと思っとったわ」
笑えない冗談に頬が引き攣るけれど、館長の首にロープが食い込まないよう、ずっと無理な体勢で体を抱え上げていたことには感謝する。それに歯を見せて笑う表情にはやはり見覚えがあった。
つい最近父親から見せられたリストに並んでいた名前の記憶を手繰り寄せる。
「君はもしかして上野幸樹さんですか?」
「当たり。お兄さんが噂の“穂高くん”ね。ここで会うとは思わんかったわ」
彼もまた、館長が呼んだ穂高という名に心当たりがあったらしい。冬耶や京介から話を聞いていたのだろう。
幸樹の家がどういった類の商売を行なっているかは調査資料に載せられていた。だからこそ葵の友人としてふさわしくないと、縁切りの対象として斜線が引かれていた。でも館長の命を繋いでくれただけで、穂高と葵にとって何よりの恩人と言えるだろう。
「先ほどは失礼しました」
「俺がこの爺さん吊るそうとしてるって思った?」
「いえ、その、状況が全く分からず」
まさしくそう見えていたのだが、さすがに葵の友人を人殺しと勘違いしたなんて認めるわけにはいかない。幸樹は穂高の下手な言い訳をそれ以上は追及せず、笑いながら腰を上げた。
「立てますか?」
「……彼はあいつらの仲間じゃ?」
「お坊ちゃまのご友人ですよ」
未だ床にへたり込む館長に手を差し伸べると、彼は混乱した様子で穂高を見上げてくる。確かに、彼の家業は館長を陥れた連中と遠くはない。でも少なくとも彼自体は館長の敵ではないはずだ。
「やーっと本題入れるな。あからさまな悪徳業者に騙されるわ、せっかくこっちが忙しいなか動いてやったっちゅーのにぽっくり死のうとするわ、ほんまに手の掛かる爺さんやな」
事務室のソファにふんぞり返った幸樹は、随分乱暴な口ぶりで館長を詰り始めた。でもその顔には呆れが浮かびつつも、柔らかい笑みが携えられている。
「奈央ちゃんの頼みやなかったら絶対見捨ててるわ」
穂高が館長の体を支えながら向かいに座ると、幸樹はボトムのポケットに突っ込んでいた紙の束をテーブルに投げた。
「爺さんが金を借りたのは事実。どんな理由があっても、借りたもんは返さなアカン。せやけど、アホみたいな利息は払わんでもええよ。んで、返す先は俺んとこな」
「……私が代わりに中身を確認してもよろしいですか?」
まだ全く話の展開が読めない様子の館長を気遣って名乗り出ると、幸樹と館長双方から頷きが返ってきた。紙の束は館長が初めに借金を負った時の借用書から始まり、利率の変更や、貸し手の権利が移行される旨が記された覚書だった。あとは館長の署名さえ入れば幸樹の言った通りのことが成立する。
だがそれを伝えても、一度騙された経験のある館長はにわかには信じられないと言いたげに首を横に振った。確かにこの内容は館長にばかり都合が良すぎるものだ。裏があると思うのも無理はない。
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