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act.8月虹ワルツ<178>
穂高が温かい緑茶を淹れてやってようやく館長の手の震えは治った。もう馬鹿な真似はしないと誓ってもくれた。とはいえ一人残すのは心配で堪らなかったが、いつも穂高を出迎えてくれる優しい笑顔を向けられて、帰路につく決心がついた。
プラネタリウムを出る頃には雨も止んで、雲の隙間から橙色の夕陽が眩しいぐらいに降り注いでいた。地面に付いてしまうのではないかと思うほど深々と頭を下げた見送りを受けながら、穂高は幸樹と並んで歩き出す。
「本当にありがとうございました。何とお礼をしたらいいか」
「感謝するなら俺を動かした奈央ちゃんにゆーて。ほんまはこんなお人好しちゃうから」
幸樹はどこか居心地悪そうな表情で穂高から視線を外した。そういえば彼は“奈央ちゃんの頼み”と言っていた。
「高山奈央さん、ですか」
「そうそう。やっぱり把握してるんやね。センセーから聞いとんの?」
幸樹は穂高の情報源が宮岡だと解釈したようだ。まさか藤沢家が身辺調査をしているだなんて言えるはずもない。穂高はその勘違いを正すことなく頷いてみせた。
「なぁ、爺さんにもゆーたけど、今日のことはお兄さんの中で留めておいてくれへん?」
自分も穂高と出会ったことは誰にも話さない。幸樹はそう続けて、ようやく視線を合わせてきた。館長相手には常に余裕のある態度を取り続けていたから本当に高校生なのかと疑いたくなっていたが、こうして向き合うと年相応な印象を受ける。
幸樹の申し出は穂高にとっても全く異論のないものだった。葵の耳には穂高の存在自体を入れたくないし、館長が自ら死を選ぼうとしたことなんてもってのほかだ。それに、そもそも話し相手など宮岡ぐらいしかいない。
穂高が了承すると、幸樹は安堵したようにニカッと大きく笑った。
「そんなら、どっかで会うことがあっても、お互い“初めまして”って顔しましょ」
館長に要求したことをなぞるような表現は穂高の頬を緩ませるけれど、同時に切ない感情も呼び起こさせる。今回はたまたま巡り合ってしまっただけで、葵の周囲の人々とこんな風に関わるつもりなどなかった。今までも、そしてこれからも。
でもそれをわざわざ彼に伝える必要はない。バイクでここへ来たという幸樹と駐車場で別れる際、穂高はもう一度だけ礼を伝えて背を向けた。
「なぁ、穂高さん?」
数歩歩いたところで初めて名を呼ばれ、穂高は足を止めた。振り返ると、夕陽を背にした幸樹がこちらを真っ直ぐに見据えている。
逆光で表情ははっきり見えないが、その分彼の金髪が茜色に染まっているのがやけに穂高の目を引く。葵の髪もああして周囲の色を映して美しく輝いていたことを思い出してしまう。
「藤沢ちゃんに会う気ないんやって?」
宮岡にだけ伝えた本音をなぜ初対面の彼が知っているのか、なんて答えは明らか。葵の心を癒すことだけに専念していればいいものを、どうやら彼は余計なお喋りをしているらしい。
今度会ったら締めてやると計画し始めた穂高をよそに、幸樹はそのまま言葉を続けた。
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