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act.8月虹ワルツ<179>

「俺もさ、藤沢ちゃんから逃げてた時期あんのよ。俺の顔見たらきっと嫌なことまで思い出させちゃうって怖くてさ」 自分は葵から逃げているのだろうか。幸樹の声に耳を傾けながらも、穂高は自問自答してしまう。葵の心を守るための行為を逃げると表現されるのは不本意だった。でも否定出来ない自分も確かに存在する。 「せやけど、結局逃げ回ってたことでもっと傷つけてたみたい。俺のこと学園中探させて、不安にさせて、多分ちょっとしたトラウマみたいなもんも植えつけた」 幸樹の言葉が痛いほど身に染みる。 宮岡からは葵が穂高の記憶を必死に手繰り寄せようとしていることを聞いていた。泣きながらも懸命に過去と向き合っているのだと。 穂高のことを忘れたままでいれば、嫌な記憶を封じ込めておける。そう信じていたのに、穂高のせいで葵の心の傷を繰り返し抉っているような気にさせられる。 「俺ですらこうなんやから、藤沢ちゃんの中で穂高さんの欠けた穴ってとてつもなくでっかいんちゃうの?」 葵を置き去りにしたあの日、あの瞬間は間違いなく葵の心の中の大半を占めていた自覚はある。だからこそ葵が穂高を忘れていると知って心底安心したのだ。これでもう穂高のことで傷つくことはないのだと思ったからだ。 「すまん、余計なことやったら忘れて」 無言を貫く穂高に気分を害したと感じたのか、それとも葛藤を見抜いたのか。幸樹は軽く手を振って今度こそ去って行った。 残された穂高も自分の車には引き上げるが、なかなかエンジンを掛ける気にはなれなかった。 縋ってくる葵の小さな手を振り払うしかなかったことを詫びる機会が得られるのなら、どんなことだってする。そう祈っていた時期もあった。 けれど、結局はまた葵と離れる未来しか待っていない。もうあの頃のように常に傍に居てやることは出来ないのだ。穂高の罪悪感を薄めるためだけに会いたいだなんて願えるはずがない。 だから何もかも忘れたままでいて欲しいと思うことにしたというのに、宮岡だけでなく幸樹まで間違いだと訴えてくる。 「……人の気も知らないで」 穂高が独り漏らした愚痴は静かな車中にやけに響く。 穂高にとって葵は唯一忠誠を誓った主人でもあり、赤ん坊の頃から育てて来た我が子のような存在でもある。何者にも変えられない唯一無二の愛しい子の手を離すことがどれほど苦しいものだったかなんて、理解されたくもない。 “ほだか” もう一度あの子に名を呼ばれ、微笑まれる。気を抜くとつい湧き上がって来る甘い幻想は己の胸に秘めておく。 休日はこれだから苦手なのだ。仕事に忙殺されていないと、必然的に自分の心と向き合わざるを得なくなる。 明日馨を迎えに行ったら、もう休日などいらないと訴えてみようか。そんな馬鹿げたことまで考えてしまう。穂高が苦しむ様は馨を喜ばせるだけだというのに。

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