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act.8月虹ワルツ<180>

* * * * * * 出来るだけゆっくり歩いていたつもりなのに、学園の門に着いてしまうのはあっという間だった気がしてしまう。傘を差す必要がなくなってからずっと繋いでいた手も自然と離れていく。 「じゃあ引越しがんばって。また会いに来るよ」 門まで都古が迎えに来ているのを見届けて、遥はあっさりと立ち去ってしまいそうになる。 予定よりも早く会いに来てくれた。昨日だって今日だって、沢山の時間を葵と過ごしてくれた。それなのにちっとも足りない。思わず遥のシャツを掴んでしまえば、小さく笑われ、そして抱き寄せられた。 「うまく練習出来なかったら電話しておいで」 「……練習?」 耳元で囁かれた言葉の意味がすぐには理解出来なかった。けれど、どこか艶っぽい笑みで昨夜のことを言われているのだと気が付く。今朝起きてからは一度だってあの行為について触れてこなかったのに、今このタイミングで出してくるなんてずるい。 一気に火照った感覚のする頬を両手で押さえれば、遥はその手に口付けて去って行った。 「……アオ?何された?」 「なんでもないよ、バイバイしただけ。ただいま、みゃーちゃん」 訝しむ都古の視線を避けるように首を振って帰宅の挨拶を口にすると、不服そうな顔で“おかえり”と返ってきた。 「ちゃんとご飯食べてた?薬は飲んだ?」 都古と手を繋ぎながら部屋に戻る道中、彼が一人できちんと過ごせていたかを確認する。メッセージのやりとりは頻繁に交わしていたけれど、直接確認しておかないと気が済まなかった。都古は黒猫のスタンプだけで感情を表現しようとするからだ。 「平気」 まるで葵が心配性とでも言いたげな顔で都古は見下ろしてくる。でもいつもより血色が悪い気がするし、眠そうにも見える。 「もしかして痛くて眠れなかった?」 「なんで?」 「今日早起きだったから」 京介とのやりとりを思い出して確認してみても、やはり都古は“平気”としか言わない。でも葵の部屋が視界の先に見えてくると彼の足がぴたりと止まる。 「あそこで、寝ていい?」 「それって京ちゃんとの部屋には戻らないってこと?」 ほとんど葵の部屋に入り浸っていたせいで忘れがちだが、元々京介と都古は同室だ。葵が役員専用のフロアに引越しをすれば当然彼らは同じ部屋で過ごすのだと思っていた。でも都古はそれをはっきり拒絶してみせる。 「京ちゃんと二人は嫌?」 直接的な問いに都古は首を縦に振ることはしなかったが、ノーとも言わない。 表現は違えど、京介も都古も三人で過ごすことは望んでいないのだと言っていた。時折あからさまに揉め始めることだってある。でも放課後葵が生徒会の活動を終えるのを揃って待っていてくれるし、葵を挟んで同じベッドで眠ってもくれる。不安はあったけれど、仲良しでいられると信じたかった。 「ケンカしちゃった?」 「違う。寝れない、だけ」 「京ちゃんと一緒の部屋だと寝れないの?」 同室とはいえ、それぞれプライベートが保てるよう寝室は分かれている。それに今までだって散々共に夜を過ごしてきたというのに。都古の言い分は葵には理解が難しい。でも切実な目をされると、無理に同室に押し込むことが正解とは思えなかった。 「一人部屋だったら眠れる?」 都古は葵の問いに迷わず頷いてみせたが、それなら今寝不足状態でいる説明がつかない。昨日はあそこで一人過ごしたはずなのだから。 いつだったか、中庭の芝生でも、屋上のコンクリートでも、場所など気にせず熟睡出来る都古を不思議に思って尋ねたことがあった。彼がもたらしたのは、葵が傍に居るならどこでも眠れるのだという答え。 あの時はただ甘えん坊だと可愛く思ったのだけれど、裏を返せば葵が傍に居ないと眠れないという意味だったのかもしれない。 都古を新しい部屋に連れて行けたらいいのに。 葵は歯痒い気持ちを抱えながら、忍に確認すると言うのが精一杯だった。葵が出た後の部屋は、ただ空室になるだけだろう。都古が居座っても寮としては問題がないはずだが、学園のルールには背く。葵の一存ではなく、会長である忍の意見を請いたかった。

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