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act.8月虹ワルツ<183>

「で、幸樹には何された?」 京介はもう荷造りの手を完全に止めてしまったし、都古に至っては布団から抜け出てしまった。求める答えを与えない限り、この追及は終わらないだろう。でもあの行為の全てを自ら口にするなんてとても出来そうにない。 「……チューした」 それが全てではないけれど、嘘ではない。他の人と触れ合ったと知ると機嫌を損ねる二人にはキスした事実だけでも告げるのは勇気がいる。 もうこの話は終わりにしたい。その意思を示すために葵はクローゼットに向き直り、奥に積んだ衣装ケースを引っ張り出す。 ケースの中には冬用のコートが仕舞われている。制服と私服、どちらでも使えるようにと選んだダッフルコート。とびきり寒い日のために内側にボアがあしらわれたジャケットもあるが、あまり出番はない。 それからもう一着、持ち主が分からない紺色のダッフルコートが葵の手元にあった。葵が持っているものよりもひと回りはサイズが大きなそれは、去年の冬に借りたもの。誰のものか予想は付いているのだが、本人に否定されて返すタイミングを見失っていた。 「お前、これでも引越していいとか言うの?警戒心なさすぎんぞ」 コートを手にしたまま当時のことを思い出していた葵は自分が話しかけられたと思って振り返るが、京介が顔を向けていたのは都古だった。都古は無言を貫いていたが、京介の言葉でようやく薄い唇を開く。 「京介の、せい」 何が京介のせいなのか。話の流れが掴めないまま割って入ることは出来ずに二人の顔を見比べて成り行きを見守るが、京介はその一言であからさまにムッとしたようだ。 「あー、確かにずっと傍に居た俺の影響だろうな」 今度は都古が顔をしかめる番だ。一体二人は何を言い合っているのだろう。直接的に互いを詰る言葉をぶつけるものではないだけに、これが喧嘩なのかも判断が難しい。 どうしたらいいか悩んでいるうちに京介がダンボールを抱えて立ち上がってしまう。 「どこ行くの?」 「どこって、運び始めるんだよ」 真っ当な言い分に聞こえるが、このタイミングで出て行かれると不機嫌ゆえの退出だと勘ぐりたくなる。 京介の怒りを治める方法を探りたくて、葵も同行すると言ってみた。一般生徒である京介は役員フロアには入れないのだし、葵が居なければ引越しが進まないはず。 でもその申し出は忍が手伝ってくれるからという理由で断られてしまった。先輩の手を煩わせるのは避けたかったが、そのあいだ荷造りの続きをしろと言われればそれ以上京介を引き止めることは出来なかった。 これから三人で過ごす時間は減るに違いない。それなのにこんな形で離れ離れになるのは嫌だった。静かになった室内で次にどんな言葉を発せばいいかも分からない。 「アオ」 中身を失ったクローゼットをぼんやりと見つめていると、背後から名を呼ばれる。ベッドに腰掛けた都古に誘われるまま、距離を縮める。 京介と仲良くしてほしいと願うことは、彼にとっては迷惑な話でしかないのだろうか。それは都古だけでなく、京介にとっても同じだと思うと、それだけで胸が苦しくなる。 「痕、消えた」 都古は浴衣が肌蹴た胸元を指差す。完全に消えてしまったわけではないが、青白い肌に浮かんでいた“好きの印”は大分薄れていた。 薄くなるたびに付け直すと約束していたのだから、彼の要望には応えなくてはならない。でも七瀬に言われたことが葵に戸惑いを与える。 都古にしか印を付けなかったことをきっと京介は怒っている、と。取り繕うように京介の手の甲に口付けてみたのだけれど、怒りは薄れるどころか増してしまったように思う。“禁止”とも言われたのだ。その言いつけを破ったとバレたら、また二人の仲はおかしなことになる気がする。 「……アオ?」 でも縋るような目を拒むことも出来ない。葵が選んだのは制服や浴衣からは見えづらい位置を選ぶこと。故意に秘密を作る行為に罪悪感を覚えるけれど、他に解決法など浮かばなかった。

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