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act.8月虹ワルツ<186>
「やっぱ奈央ちゃんでも気が進まんところなんや」
それらしい理由を並べても、幸樹には奈央が気乗りしていないことは読み取れてしまったらしい。缶コーヒーに口を付けながら、幸樹はどこか遠い目をしてみせる。
「幸ちゃんは櫻の家族に会ったことあるんだっけ?」
「今の家族って意味なら、ない」
つまり、前の家族になら会ったことがあるのだろう。深掘りしていいものか悩んでいると、幸樹はこちらを見ないまま言葉を続けた。
「顔は月島をちょっと垂れ目にして甘くした感じ。ふわっふわの栗毛で、いっつも肩とおっぱい出た服着てたわ。ただ道歩いてるだけで、男が吸い寄せられる、フェロモンの塊っちゅーの?」
彼の口から語られるのは櫻の生みの母親の話ではあるが、そのどれもが容姿に纏わるもの。知りたかったこととは少しずれた情報だ。でもそういった印象を強く残す女性だったというのも、特徴の一つと言えるのかもしれない。
「俺が話せんのはこのぐらい」
母親の外見だけに情報を絞ったのはやはり意図的なものだったのだろう。ヘラヘラと気の抜けた笑顔を向けてくる彼は相変わらず掴みどころがない。
「せや、奈央ちゃん」
場の空気を変えるように、幸樹は明るい声で名を呼んできた。
「三人で行くのは後回しにするとして、一回顔出してくれへん?」
「プラネタリウムに?」
「そそ、爺さんだいぶ弱ってるみたいやから」
最後に会った時の館長の姿を思い出すと、幸樹の表現は誇張でも何でもないのだと分かる。家を失い、小さな事務室で寝泊まりする痩せ細った姿を思い出す。
「すぐに奈央ちゃんと藤沢ちゃん連れてくるって言っちゃったし。あの爺さん、期待してるやろうから」
あの広い施設にたった一人で暮らす館長のことを思うと、出来るだけ早く様子を見に行ったほうがいいという幸樹の意見には賛成だ。だが、それならやはり葵を連れ添わせたほうがいい気がする。
週末の葵の予定を確認した上で、タイミングが合えば誘ってみよう。そう提案すると、彼は異論はないと言いたげに頷いた。
特に声を掛け合ったわけではないが、お互いが手にした缶が空っぽになったのを察して自然とベンチから立ち上がる。腕に嵌めた時計を確認すると、時刻は七時を回っていた。
「葵くんの引越し、終わってる頃かな」
「どうなん?今日からお隣さんになる気分は」
奈央は葵の様子が心配で話題にしたというのに、幸樹はにやけた顔をしながら肘で突いてくる。
これから葵と隣同士で暮らす生活が始まる。何かあれば一番に駆けつけられる距離が嬉しくないわけではない。ただ責任の重大さを感じて、不安のほうが大きい。
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