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act.8月虹ワルツ<192>

* * * * * * 窓を開けると少し湿った夜風が頬を撫でた。風に乗って、ピアノの音色も響いてくる。 荷解きを優先しろと言って、櫻には今夜食事を運ぶことを断られてしまった。だから櫻がきちんと夕食を食べたのかが不安になる。そのぐらい絶え間なく物悲しいメロディが届いてくるのだ。 ダンボールから荷物を出す作業は、忍の手を借りてあっという間に終わった。そして荷物を移し終えたウォークインクローゼットを眺めながら、“今度服を買いに行こう”と誘われた。忍には余程衣類が少ないという印象を与えてしまったらしい。 西名家に残してきたから少なく見えるだけ。そう言ってその場は誤魔化したが、信じてもらえたかは自信がない。でも必要以上の物を持つつもりはなかった。忍の口ぶりから、買ってくれようとする意思が感じられたから尚更だ。 “これからお風呂に入るよ。みゃーちゃんも入ろうね” 壁に掛かった時計の針はすでに九時を回っていることを示している。離れた場所で夜を過ごす愛猫にメッセージを送ると、数秒も経たずに元気よく頷く黒猫のスタンプが返ってきた。 離れてしまった距離を少しでも縮めるために、都古とはこうしてこまめに連絡を取り合うことに決めた。葵と同じタイミングで同じ行動をとってもらえれば、生活も乱れないはず。この作戦が上手くいくかは分からないが、少なくとも都古の寂しさは癒されると信じたい。 仕舞ったばかりのパジャマを抱えて浴室に向かった葵は、そこでようやく自分のミスに気が付く。都古があの部屋で最低限の生活を送れるようにと、ボディソープやシャンプーを残してきてしまったのだ。部屋を出る時にはあとで購買で買おうと決めていたのにすっかり忘れていた。 明日早起きして都古のところに向かうことも考えたが、昨夜入浴後に行ったことを思い返すと、ベッドに入る前に体を洗い流したくなる。迷った末に葵はこのフロアにいる先輩を頼ることにした。 相談相手として、ピアノを弾き続ける櫻は候補から一番に外す。引越しを手伝ってくれた忍か、片付けの終盤で顔を出した奈央か。どちらも優しく迎えてくれそうな気はするが、チャイムを押す勇気が出ない。先にメッセージを送って伺いを立てるべきだろうか。 廊下をうろうろと彷徨った挙句、一旦部屋に戻ろうとした時だった。 「藤沢ちゃん?何してるん?」 ちょうど帰ってきたところだったのだろう。エレベーターのほうからやってきたのは幸樹だった。葵にとっては願ってもないタイミングだ。すぐに事の経緯を説明すると、幸樹は躊躇うことなく自室に招いてくれた。 「またあっさり着いてきちゃって。今日は王子様ちゃうよ?」 扉が閉まるなり、幸樹からは抱えたパジャマごと抱きすくめられる。以前は彼から強く香った煙草の香りが今は一切しない。代わりにシトラスのような爽やかな香りがする。どこか甘みも感じる不思議な匂いだった。 「こら、話も聞かんと人の腕くんくんして。何してんの?」 「何の匂いかなって。香水ですか?」 「あぁ、今日はいつもと違うの付けたからそれで気になるんかな。嫌い?」 葵の顔を覗き込むように屈んだ幸樹はどこか不安げな目をしている。素直にいい匂いだと感じたと伝えれば、“じゃあ明日も付ける”と笑ってくれた。

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