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act.8月虹ワルツ<196>
「なぁ、藤沢ちゃん」
先に沈黙を破ったのは幸樹だった。
「藤沢ちゃんがどんな話をしたいのか分からんけど。それ、俺に知ってて欲しいって思って聞いてる?それとも知らないでいて欲しい?」
事実はさておき、葵の心持ち次第で幸樹の返答が変わる。そう言われているようなものだった。
あの出来事を自ら知ってほしいとは思えない。出来れば全て無かったことにしたいぐらいだ。でも嘘をつき続けるのも、知らないフリをさせ続けるのも嫌だった。
「分からないです。どうしたいのか。ごめんなさい」
聞いたくせにこんなことしか言えないことが情けない。葵が俯くと、幸樹はそれ以上追及することはしなかった。代わりにもう一度背後から強く抱き締められる。
「怪我は良くなってる?痛みとかはない?」
足首にはまだ違和感があるし、強く体重を掛けるとズキンという痛みが走る。でも日常生活に支障はない。真っ直ぐに頷きを返した。
「じゃあ、今度来た時は一緒に入ろ」
「……はい。あの、嫌とかじゃ、ないんです」
「ん、分かっとる。恥ずかしがり屋さんってだけやろ?」
幸樹はそう言ってわざとはぐらかすように頬に口付けてくる。ただそれで済めば彼の優しさを感じるだけで良かったのだが、その後続いた言葉に耳を疑いたくなる。
「次が楽しみやなぁ。ぬるぬるで遊んで、お風呂でたっぷり洗って、んで、仕上げに舐めて」
「え、あ、待ってください!違いますっ」
「一緒ってそういうことちゃうの?あぁ、舐めたらもっかい洗ったほうがいいか」
そんな遊びの約束までするつもりはなかった。必死に首を横に振って違うと主張しても、幸樹はちっとも聞く耳を持ってくれない。ただ慌てる葵をからかって楽しんでいるだけならいいが、本気だったらどうしよう。
せっかく引きそうだった熱がまた体の奥底でくすぶりだす感覚に、葵は逃げるように脱衣所に駆け込んだ。幸樹があっさり腕を離してくれなかったら、きっと真っ赤になった顔を見られていた。洗面台の鏡に映る己と対面し、葵はそんなことを思う。
こうなったら早く用件を済ませて部屋に帰るしかない。急ぎ足でデニムを脱ぐと、ぴったりしたデザインのそれは足元で見事にひっくり返ってしまった。
「あぁ、もう」
靴下を履いたまま雑に脱いだ自分が悪いのに、誰にともなく拗ねた声が溢れてしまう。でも裏返しになったデニムを元に戻すために腕を突っ込むと、ポケットから何かがハラハラと舞うように床に落ちた。光沢のある黒いカードには全く覚えがない。
「ダーツバー?……これ、なんて読むんだろう」
表面に綴られた店名らしきものの読み方が分からない。裏面も住所と電話番号が書かれているだけ。どこかで手にしただろうか。
今日の行動を一つずつ遡った葵は、映画に向かう前に出会った人物に辿り着いた。京介のバイト先の店長だという男性。彼に腰のあたりを撫でられた、その時にポケットへ滑り込まされたのかもしれない。
ということは、ここが京介のバイト先なのだろうか。
きっと京介に正直に打ち明け、このカードを渡してしまったほうがいいのだということぐらいは分かる。でもずっと隠されていた京介のバイト先への興味が勝ってしまう。
秘密に触れてしまったという緊張感で胸がドキドキと鼓動を速めていく。
「どったの?やっぱり一緒に入る?」
急いで脱衣所に向かった割に、ちっとも浴室に入ろうとしない葵を気に掛けてドア越しに幸樹が声を掛けてくる。そこでようやく我に返った葵は、カードを隠すように元の場所に戻した。
幸樹には一人で大丈夫と返事をしたものの、浴室に駆け込んでもなお、葵の頭の中からは店名を示すアルファベットが消えそうになかった。
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