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act.8月虹ワルツ<199>

「俺が貸したのは葵チャン。まだお礼も貰ってないし」 葵からしか受け取るつもりはない。そう表明するとただでさえ険しかった彼の顔つきがより一層歪む。 若葉が喜ぶことを知っているから、冬耶がこんな風に感情をあらわにすることはほとんどなかった。でも葵を引き渡した夜同様、今も冬耶は怒りを剥き出しにしてくる。彼にとってよほど葵が大切な存在なのだろう。ますます面白い。 「あぁ、でも全部忘れちゃってるんだっけ。映像残ってたんデショ?見せてあげたら?」 「…………ッ」 若葉の言葉でこうも簡単に怒りが沸点に達した様子の冬耶は拳を握り締めてこちらに駆け出してこようとするが、それを幸樹が止めた。彼は冬耶に加勢するというより、ブレーキ役としてやってきたようだ。 生憎若葉のほうは彼らの相手をする気はない。それが殴り合いでも話し合いでも。 「なぁ、あのラーメン屋って何時までだっけ?」 眠気と共に感じる食欲を素直に口にすると、徹は呆れ顔をしながらも腕に嵌めた時計を確認した。 「二時までです。今から行けば間に合いますね」 「んじゃ、飛ばして」 もう冬耶たちの存在など気にせずに車の後部座席に乗り込もうとすると、砂利を蹴る音と共に背後からきつく肩を掴まれた。加減など一切感じない強い力。無反応を貫きたかったが、深く食い込む指の圧のせいでさすがに眉をひそめてしまう。 「直接やり合う自信がないのか?」 学園ではいつでも人のいい笑顔を浮かべていた冬耶がひどく殺意のこもった眼差しを向け、明らかな挑発を口にしてくるだけで堪らない。 でも彼の真意はきっと若葉と勝負することではない。こうして若葉を煽ることで、牙を剥く相手を冬耶だけに絞らせたいのだろう。だからその手には乗らない。 「いつか気が向いたら相手してあげる。でも今日はごめんネ。眠いし、腹減ってるから」 欠伸混じりにへらりと笑ってみせると、冬耶に胸ぐらを掴まれた。 「絶対にここから追い出してやる」 「オッケー、楽しみにしてる。……あぁ、でももっと安全な檻に移さないと、追い出される前にお前の大事なモン、食べちゃうかも」 葵が部屋を移ったことはさっき未里から聞いた。若葉がベランダに出ていた葵と出会ったせいなのか、以前から決まっていたことなのかは分からない。でも一般生徒が出入り出来ないエリアに囲ったぐらいで安全だと思っているなら大間違いだ。 「そこの番犬が役に立つとイーネ」 やりとりに参加することのない幸樹に視線をやりながら今度こそ徹の開いた扉の中に体を滑り込ませる。 冬耶はせっかく手の届く範囲に現れた若葉を逃したくはなかったようだが、徹がようやく二人を帰宅を妨げる敵とみなす空気を纏い出したおかげでそれ以上の追及をやめたほうがいいと判断したようだ。

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