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act.8月虹ワルツ<201>
* * * * * *
聞き慣れないインターホンの音が葵を眠りから目覚めさせた。重い瞼を開いて感じた違和感。当たり前になっていた京介や都古の腕の温もりがない。
代わりに葵を囲むのは毛足の長いクマと、古くからの友人である真白いうさぎ。そこでようやく自分が部屋を移った事実を思い出す。
昨夜幸樹の部屋から戻り、皆から届いたおやすみの挨拶に返事をしたはいいものの、ベッドに潜り込んでもなかなか寝付くことが出来なかった。
兄の描いた絵を見つめて心を落ち着けたり、ぬいぐるみに抱き付いて楽しかった思い出を振り返ったりすることでなんとか眠ろうと試みたが、結局意識が途絶えたのは窓の外がうっすらと明るくなってからだったと思う。
もう一度鳴った音に慌ててベッドから飛び降りた。廊下に面した扉を開けば、そこには制服を身に纏った三人の先輩が顔を揃えていた。
風呂上がりの葵を再び捕まえ、“おやすみのキス”と称してたっぷりと唇を貪ってきた幸樹の姿だけが見えないことに少しだけホッとしてしまう。
「なんだ、まだ着替えてなかったのか」
「……あれ、今何時ですか?」
忍の言葉で途端に嫌な予感が頭をよぎる。こうして迎えに来てくれたということは、それなりの時間なのだろう。葵の問いに、三人が揃って仕方のないものを見るような、それでいて優しい眼差しを向けてくる。
「大丈夫、少し早めに様子を見にきただけだから。支度しておいで」
焦る葵を安堵させるように奈央が背中を押してくれた。
「まぁ寝坊するぐらいよく眠れたんなら良かったけどね」
「その逆じゃないか?あの顔はどう見ても寝不足だろう」
開け放したままのドアのほうから、櫻と忍の会話が聞こえる。初日からこんな風に迷惑を掛けることになるなんて情けない。
寝室に戻った葵はパジャマを脱ぎ捨て、すぐに支度が出来るようにと姿見に引っ掛けていた制服を身につける。鞄も昨夜のうちに準備をしていたおかげで、時間割を確認して教科書やノートを漁る手間が省けた。
顔だけ洗って再び先輩たちの元に戻るまで五分も掛からずに済んだはずだ。でもまた三人には渋い顔をされてしまう。どうやら彼らの基準では到底身支度が整ったとは言えなかったらしい。
「いつも西名にやってもらってたの?こんなにボサボサのままにして」
櫻に手を引かれて連れて行かれたのは洗面所だった。
櫻は鞄から深いブルーのガラス瓶を取り出してその中身を手の平に伸ばす。その瞬間ふわりとローズの香りが漂ってきた。どうやらヘアオイルのようなものらしい。葵の髪全体に軽く馴染ませると、丁寧に櫛を通してくれた。
毛先がぴょんぴょん跳ねて、後頭部が鳥の巣のように乱れている原因は分かっている。昨日きちんと髪を乾かさずにベッドに入ったからだ。でもそんなことを正直に打ち明ければますます心配を掛けてしまうだろう。
それに幸樹の部屋にあったシャンプーがあまり髪に合わなかった気もする。清涼感のあるメントールが強めのそれは、細く柔らかな葵の髪には刺激が強かった。少しパサついた感覚のする髪にはヘアオイルの油分がちょうどいい。
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