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act.8月虹ワルツ<202>
いつも以上に整えられた髪型になった葵は、今度こそ大丈夫、そう思って鞄を肩に掛け直したのだけれど、次は忍に引き止められる。
「随分不格好だな。来い、結び直してやる」
どんな時もピシッと制服を着こなす忍からは余程目に余ったのだろう。ネクタイの結び目を緩めて一度完全に外されてしまうと、手際良く結び直される。その際ネクタイに刻まれたイニシャルを確認した忍は眼鏡の奥の目を薄めた。
「相良さんのか?」
このネクタイの主を問われ、葵は素直に頷いた。
冬耶のものは屋上で若葉に奪われてしまったけれど、代わりとばかりにこのネクタイがショルダーバックに仕舞われていたことには昨夜ベッドに入る前に気が付いた。何も言わずに遥がこっそり忍ばせていたらしい。冬耶に負けず劣らず、本当に悪戯好きだ。
「この部屋といい、あの人たちはマーキングするのが好きだな」
「マーキング、ですか?」
「卒業したっていうのに、ちっとも譲ってくれない」
そう言って忍はどこか悔しそうな顔をしながらノットを整える。自分で結ぶよりも圧倒的に美しい結び目が首元を飾った。
「お揃いの結び方にするのもマーキングじゃないの?」
「可愛い後輩の世話を焼いてやっただけだろう。自分の香りを髪に纏わせるほうがそれらしいが?」
「あぁ、ヤキモチ?みっともない」
葵の髪を一房取り上げ、にっこり微笑む櫻は上機嫌だ。忍はやはりムッとした顔のまま。二人の仲が良いのは知っているが、こうしてよく張り合い始めることがある。間に挟まれた場合、どう対処していいか未だ掴めないでいる。
「朝食食べに行こう、葵くん」
こんな状況を救ってくれるのは決まって奈央。葵の手首を引いてエレベーターの方面へと導いてくれる。
「あの、上野先輩は起こさなくて大丈夫ですか?」
「一応声かけたんだけどね。昨日は寮で寝なかったみたい」
「……え?」
葵を部屋まで送ってくれた幸樹は、そのあと出掛ける予定があるなんて一言も言っていなかった。葵が自室に戻ったのは十時を過ぎていた。そこから外出するだなんて一体何の用事なのだろう。
「いつものことだから心配しなくて大丈夫だよ。あとで登校するとは言ってたし」
そんな生活が日常のほうが心配だ。でも安心させようとしてくれる奈央に不安を訴えるのは筋違いだ。葵は納得した素振りで頷いた。
寮のエントランスでは京介と都古が少し離れた場所で葵が来るのを待っていた。隣同士に座らないところが彼らの関係を示しているようだ。今までは特別気にしないようにしていたのだが、昨日のやりとりを思うと胸がチクチクと痛む。
二人には葵がロクに眠れなかったこともすぐに見抜かれた。言わんこっちゃないと言いたげな京介と、葵以上に顔色の悪い都古。
それぞれから頬を突かれ、頭を撫でられると途端にツンと鼻の奥が痛んで泣きたくなる。たった一晩離れただけでこれほど彼らの温もりが恋しくなるなんて。でもここで弱音を吐くのはあまりにも子供っぽい。
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