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act.8月虹ワルツ<207>

「で、なんで一人で九夜に会いに行ったか聞いてもいい?」 ランチの場所に選んだタイ料理の店は客足もまばらでほとんど貸切の状態だった。片言の日本語で注文をとった店員が去るのを横目に、遥は車中で説明した昨夜の出来事を蒸し返して来た。 幸樹を同席させたから一人じゃないとか、遥をピックアップしている間に若葉に逃げられることを危惧したからとか、そんな理由を説明してみるが、そのどれもに納得しない顔をしてみせる。 彼は帰国した目的の一つに、冬耶が暴走しないように、なんてことも口にしていた。若葉と対峙した冬耶が冷静で居られるとは思わなかったらしい。 確かに彼が葵を陵辱していた映像がフラッシュバックして理性を失いそうになったが、藤沢家や記者との問題が片付かないまま若葉とやり合って戦線離脱を余儀なくされるわけにはいかない。だから昨日も乗り気ではなさそうな若葉を相手にそれ以上追及するのをやめることが出来た。 「まだ気にしてんの?」 遥はそう言って、己の左腕を指差した。清潔な印象を与えるブルーストライプのシャツの下には白い肌に不似合いな縫合の痕が残っている。その傷を付けたのは若葉だ。 「俺への興味は完全に失せてるだろうし、冬耶が心配するようなことは起きないと思うけど」 将来の夢を絶たれかねないほどの大怪我を負わされたというのに、本人は至って楽観的だ。事件が起きた直後からそうだった。でも冬耶としては親友がターゲットになったことをまだ咀嚼出来ずにいる。 「はるちゃんのこと傷物にされたんだから、同席させるほうが冷静でいらんないよ」 「傷物って。別に掘られたわけじゃあるまいし」 「ほ……ちょ、はるちゃん、もうちょっと品のある言葉使って」 見た目とは裏腹に、遥はこうした話題にも躊躇いは見せない。冬耶が動揺する様を面白がるのもタチが悪い。 若葉も遥の性格に翻弄されたと聞く。初めはこの容姿だ。レイプを目論んで近づいたようだが、遥は“減るもんじゃない”というスタンスで対応したらしい。強がりだと疑った若葉も段々と遥が本気だと気が付いて、違う手に出た。 それも結果的には若葉の敗北だったと思う。冬耶に精神的なダメージを与えることには成功したし、遥だって彼の暴挙を許したわけではないだろう。けれど遥は若葉のことをちっとも恐れていない。だから若葉からも遥は全く旨味のない相手と認識されているようだ。 「でも困ったな。葵ちゃんに日常生活を送らせながら守り切るって相当難しいだろ」 「一応上野が九夜の動向追ってはくれてるけど」 「っていっても学年が違うしな。こんなことなら京介と同じクラスにしておけば良かった」 遥はそう言って過去の自分たちの判断を悔やみ始めた。 葵が初めて登校したのは初等部三年の秋。全く他人に慣れていない葵のために、両親は京介と同じクラスにすることを学園側にお願いしていた。 それが慣習化し、わざわざ頼まずとも当たり前のように葵と京介はセットでクラス替えをさせられるようになっていたが、今回の進級で初めてクラスを分けさせた。葵をもう一段階成長させるために、生徒会役員として冬耶と遥が口を出したのだ。その時は若葉が自分たちとともに卒業すると信じて疑わなかったからだ。 京介は二人のせいだと薄々感づいているようだが、葵は今まで京介とずっと同じクラスだったことも、今回離れたことも単なる偶然と思っている。クラス替えの時期が来るたびに一喜一憂する葵の姿を見て全く心が痛まなかったといえば嘘になるが、周りが様々なことに手を回していると知ればきっと落ち込ませてしまう。 都古と七瀬。二人とクラスメイトになっての生活は、それなりにうまくいっていると思っていた。こうして若葉の問題が浮上するまでは。遥の言う通り、都古だけでなく京介も常に傍に居させることが出来たらどれほど心強かったか。 やはり若葉を学園から追い出す以外、確実な方法はないだろう。彼が掌握している理事たちを切り崩す手段を見つけなくては。冬耶がそんなことを思い描いているうちに、厨房から現れた店員が二人分の皿を運んで来た。

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