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act.8月虹ワルツ<208>

「俺も留年すれば良かったな」 バジルとひき肉を炒めた具材の上に乗った目玉焼きを突きながら、冬耶はつい非現実的なことまで口走ってしまう。そうすれば一ノ瀬の事件など絶対に起きなかったと言い切れる。若葉に手出しもさせなかった。それが一番簡単な解決方法だったはず。 遥はくだらないと言いたげに溜め息をつきながら、自分が頼んだ料理に手をつけ始めた。しばらくはお互い無言で食事を進めるが、遥は大学での出来事を再び話題に出して来た。 冬耶が二つ上の先輩たちをあしらいきれずにいることに対し、まだ文句が言い足りないらしい。 「適当に“付き合ってる相手がいる”って言っておけばいいのに」 「嘘つくのもそれはそれで面倒だからな」 “閻魔”だなんてあだ名が付いていたくせに平気で嘘を付かせようとするなんて。必要に迫られればもちろん適当な言葉を並べてその場をやり過ごすことぐらいはする。でも嘘は次の嘘を生む。出来れば何の情報も与えたくないと思うのが悪いこととは思えない。 「じゃあ“好きな人がいる”は?それなら嘘じゃない」 探るような目を向けてくる遥に、彼が本当に伝えたいことを察する。またその話かと、今度は冬耶が溜め息をつく番だ。 「俺の知る限りではあるけど、そういう言い訳使ったことないよな。好意を寄せる子がどんな子か、深掘りされるのが嫌?本人の耳に入るのがこわい?」 「随分棘のある言い方するなぁ。なんでそう突っかかってくるんだよ」 頼んでもいないのに、遥は冬耶に気を遣って葵に迫らずにいてくれているらしい。痺れを切らしてこうして冬耶をけしかけてくるなら勝手にすればいいのにと言いたくもなる。彼が葵を傷つけるようなことは絶対にないと信じている。止めるつもりはない。 「冬耶の愛し方を理解するつもりではいたけど、全面的に賛成は出来ないなと思って」 「そんなの前からだろ」 葵を大事に大事に甘やかして守ってきた冬耶とは違い、遥は厳しい態度をとることも出来る。 今思えば、彼がそうして介入してくれなければ、葵が家を出たり、学校に通ったり、友達を作ったりと成長するステップを踏むのは大幅に遅れていたと思う。もしかしたら未だに部屋に引きこもっていたかもしれない。 だから感謝はしているけれど、愛し方など人それぞれだろう。何度も会話を重ねた上で、お互いの役割を確立してきたはずだ。それを今更揉めるような形で蒸し返すなんて、厄介にも程がある。 「葵ちゃんの幸せ、本当にちゃんと考えてる?」 「そんなの当たり前だ」 「じゃあオナニーすら教えないのも葵ちゃんのためなの?」 日中公共の場でのランチ中に聞くようなものではない単語が聞こえた気がする。耳を疑ったが、親友はいたって真面目にこちらを見つめていた。 「……は?え、何の話?今の流れでする話で合ってる?」 「合ってる。冬耶が何を恐れて温室育ちにしてるかは理解してるよ?でも生理現象への対処法教えないのは違うだろ」 遥に指摘されて初めて己の考えの至らなさに気が付いた。 冬耶に対しては甘えん坊で泣き虫な可愛い弟。小さな体も相まってどうしても実年齢より幼い印象が強いが、確かにもう高校二年。精通を迎えていても全くおかしくないどころか、今何も知らないのであれば遅いぐらいだろう。

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