1311 / 1636
act.8月虹ワルツ<209>
「もしかして、あーちゃんに何かした?」
遥が突然こんなことを言い出したきっかけなんて、土曜のお泊まり以外考えられない。その夜に何かがあったに違いない。
「そういう聞き方する?こっちは理性総動員して対応してやったっていうのに。何かしていいならとっくにしてるよ」
遥の目にも声音にも、偽りの匂いは感じない。
「部屋は暗くしたし、服脱ぐ瞬間は目を瞑ってた。おまけにタオルケットで体も隠させた。で、葵ちゃんの手でさせただけで俺は触ってない。これで何か文句ある?」
「……ない、です」
好意を抱く相手とそんな状況に置かれる辛さは想像に難くない。葵と性的な行為に及んだと知って一瞬頭に血が上りそうになったが、恨みがましい冷めた目で睨まれると文句など言えなかった。
「次は冬耶が教えてやってよ」
「は?次って?遥が教えたんだろ?」
「今まで何にも知らなかった子が一回で理解できると思う?」
思わない。というより、未だに葵が自らを癒す姿など全く想像出来ていない。そのぐらい冬耶の中で葵は清すぎる存在なのだ。そんな葵に性知識を植え付けることにもやはり抵抗がある。
「こういうのを教えるのも“お兄ちゃん”の役割だろ」
もっともらしい理由で追い詰めてくるが、これを機に冬耶の理性を崩しにかかろうとしているに違いない。
「自信ない?」
困惑を隠しきれない冬耶に、頬杖をついた遥が挑発するような視線を向けてくる。親友とはいえ、余裕のある口ぶりもサラサラと揺れる髪も、つくづく腹が立つ相手だ。
少し前の自分だったらきっと、何があっても葵に抱いているもう一つの愛情を感じさせないと言い切れた。
でも一ノ瀬や若葉が葵に触れた事実が冬耶を揺さぶる。そして何より“冬耶くん”と昔の呼び名を口にされたあの夜から、明らかに何かが緩んでしまった自覚はある。今まで何も感じなかった一挙一動に動揺させられるのだ。
「色々片付いたら考えるよ」
「そうやって先延ばしにしてるあいだ、葵ちゃんが苦しんでもいいんだ?」
「そういうわけじゃ……優先順位があるって言いたいだけで」
ただでさえ面倒な問題が山積みの状態なのだ。自慰行為の教育を後回しにすることぐらい許してほしい。
「じゃあ俺に任せてくれる?」
「いや、それは」
嫌だと言い掛けて、慌ててその言葉を飲み込んだ。今のは葵を心配する兄の言葉ではない。葵を独占したがる男の発言だった。
「……ねぇはるちゃん、俺のこと虐めて楽しい?」
空っぽになった器が下げられて出来たスペースに突っ伏した冬耶は、思わず泣き言を口にしてしまう。こんな情けない姿は彼にしか見せられない。遥の笑い声で十分に質問の答えも理解してしまった。
ともだちにシェアしよう!

