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act.8月虹ワルツ<210>
「宮岡先生に頼めば良かった」
葵にロクな知識がないことを心配した宮岡の提案を無下にしてしまったことを思い出す。他の誰かに任せるのは抵抗があるが、医者の宮岡に淡々と教育してもらえるならそれが一番正しい選択だと思える。
「あぁ、そうだ。その宮岡先生にも一度会いたかったんだ。繋いでもらえる?」
「それは構わないけど、なんで?」
声のトーンが変わった遥を見やると、思いの外真剣な顔つきでこちらを見つめ返された。
「葵ちゃんのことを任せていい相手かどうか、俺自身の目でも確かめたいから」
宮岡を信頼に値する相手だと評価した冬耶のことを疑っているわけではないのだろうが、直接会話をして見定めたいという遥の気持ちはわからないでもない。
過去葵には医者を引き合わせたことがある。西名家に引き取った頃の衰弱しきった葵の心と体を回復させ、失った声を取り戻させるために。でも医者が自分の味方であることを理解出来ず、怯えきった葵の様子を見て治療を諦めた苦い経験がある。
その頃に比べて葵自身が成長したこともあるが、京介の話では初めて出会った時から宮岡には心を開いたのだという。彼が葵に対して抱く温かな愛情が感じられたからだと思う。その話は遥にももちろん共有していたが、彼曰くそこが一つの懸念ポイントらしい。
「先生にとって葵ちゃんは特別に可愛い相手ってことだろ?性教育なんか任せて魔が差す可能性がゼロって言い切れる?」
「さすがにそれは無いだろ」
「でもなぁ、めちゃくちゃ可愛いよ?」
そんな葵を前にしたらどうなるか分からない。実際に目の当たりにした遥の言葉には妙な説得力があった。
一ノ瀬が仕掛けたカメラで撮影された映像は正直あまりにも痛々しくて、可愛いだなんて到底思えなかった。ただ哀れな葵に胸が引き裂かれそうな思いをさせられた。
でもおやすみのキスをねだってくる葵の表情や、額や頬に唇を当てるたびに心地好さそうに息を吐く姿がどれほど愛らしいかは冬耶だって知っている。
近いうちに宮岡との場を設ける。遥が納得する回答を与えれば、ついでに椿にも会いたいと言ってきた。冬耶が先日椿を懐柔するのに失敗したことが気掛かりだったのだろう。
宮岡と違って、冬耶を完全に敵視している相手と会話するのは困難だが、藤沢家との問題を片付けるには彼の協力は不可欠だ。何はともあれまた話をつける必要はあった。
遥は日本での滞在中に出来るだけ葵の周りの環境を整えるつもりでいるらしい。そうでなければ帰って来た意味もないし、最低限の安全が保障されない限りはフランスにも戻りたくないと言っている。
冬耶一人でどうにも出来ずに呼び出すような真似をしたことには申し訳ない気持ちが生まれるが、やはり彼の存在は心強いものでしかない。
次の週末も遥は葵を自分の家に泊まらせるつもりだと言う。今回は冬耶もどう?なんて誘ってくれたが、その目的に心当たりがあるから素直には喜べない。どこか色気を含んだ笑顔が冬耶の予感を確信に変えさせる。
最寄駅まで歩いて向かうと言って手を振った親友を見送りながら、彼が与えてきた新たな問題とどう向き合うべきか頭を悩ませた。
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