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act.8月虹ワルツ<218>
「アオッ」
住む気がないとはいえ、京介との相部屋の鍵を持っていて良かったと思う。一秒でも早く都古にとっての安全地帯に逃げ込みたかった。
ソファで京介とおしゃべりに興じていたらしい葵は、駆け込んできた都古に驚いた顔はしたが、何も聞かずにすぐに手を広げて招き入れてくれる。
都古の腕の中にすっぽりと収まってしまう小さくて温かな体。匂いはいつもと少し違うけれど、でも抱き締めて深呼吸するだけであれほどざわめいていた心が落ち着いていく。
「お風呂入ってたの?髪濡れたまんま。乾かそうか?」
「うん、して」
真っ直ぐに甘えてみせると、一度洗面所にはけた葵がドライヤーを持って戻ってくる。華奢な指が都古の長い髪を滑り、丁寧に風を当てていく。葵が幼い頃から家族にそうされてきたように、都古を大事に世話してくれるこの時間が大好きだ。
今日の生徒会で役員希望の一年が現れたという話を教えてくれる葵の声に耳を傾けながらも、あまりの心地良さに瞼が重くなってくる。どれだけ体が疲労していてもロクに寝付けなかった一昨日や昨日の夜とは大違いだ。
葵がドライヤーのスイッチを落とす頃には、ほとんど瞼が開いていない自覚はあった。葵の腰に腕を回し、しがみつくような姿勢から動けそうもない。
「あれ、眠くなっちゃった?って、もう寝てる?」
「……起き、てる」
なんとか返事はしたが、葵の笑い声が耳をくすぐってくる。眠りを促すように優しく髪を梳かれるとますます眠気に抵抗出来なくなってきた。
「今日はここで飯食えば?それじゃ連れてけねぇだろ」
黙って様子を見ていた京介が珍しい提案をしてきた。いつもなら“馬鹿猫は置いてけ”なんて言って強引に葵を連れて行ってもおかしくないのに。大勢で騒がしく夕飯を食べるよりも、都古が居るとはいえ、この部屋で葵を独占出来るほうがマシだと思ったのかもしれない。
三人分の夕食を取りに行ってくると言って京介が部屋を出ると、葵は本格的に都古を甘やかす姿勢をとってくれた。ソファに座る葵の膝の上に頭を預けて目を瞑ると、すぐにでも意識が飛びそうだった。
「試験勉強沢山がんばったから、きっと疲れが溜まっちゃってるんだね」
全ての追試や補習を免れることは難しかった。でも数教科でもラインを超えられただけで都古にとっては奇跡のような結果だ。葵もこうして手放しで褒めてくれる。
「ご褒美、は?」
瞼を開かないまま手を伸ばせば、葵はその手を迷わず握り返してくれる。
「また今度ね。今はもう眠いでしょ?」
「……何しても、いいよね」
都古のおねだりに息を呑んだのが分かる。どんな想像をしたのか聞いてみたい。
いつも呼吸するタイミングに困って涙目になってしまう深いキスか。もしくは身体中至る所に吸い付き、舌を這わせる愛撫か。それとももっと先まで許してくれるのか。
「なんでもはダメだよ」
わずかに上擦った声で都古の我儘を諌める声が聞こえたが、眠りに落ちたフリをしてやり過ごす。
“どうしよう”
都古に伝わらなかったと思って困惑した呟きを漏らす主人が可愛くて仕方ない。まだ起きているのがバレないよう必死に口元が緩むのを我慢する。
葵とこんな会話を交わすだけで自分は十分満たされる。葵も今の自分を可愛がってくれている。それ以外に自分たちの間に何が必要なのだろう。
葵のことだけ考えて眠りたかったのに、意識を手放す前に現れたのはあのやかましいクラスメイトの言葉だった。
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