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act.8月虹ワルツ<222>

「子守唄だけ弾いてあげられるんなら、そこで寝かせるのに」 櫻が食事を終えたのを合図に自然と席を立とうとすると、引き留めるように腕が引かれた。櫻の視線の先は寝室。開け放したままの扉からは、大きなサイズのベッドが見える。 夜遅くまでピアノの練習に励み、今朝は葵よりも早く目覚めていた。あのベッドはきちんと使われているのかと不安になる。 「櫻先輩、ちゃんと睡眠とれてますか?」 「僕は葵ちゃんの心配してたんだけど。また明日も寝坊するんじゃないかってさ」 寝癖を直したことを示唆するように、櫻が葵の髪を梳いてくる。その心地良さに思わず目を瞑ると、今度は体ごと引き寄せられた。櫻は生徒会の先輩たちの中では一番小柄だけれど、それでも葵よりは十センチ以上背が高い。抱き締められると体格の差をより実感させられる。 櫻と過ごすのは食事の間だけ。あとは練習の邪魔にならないようすぐに退散しなければならないのに、葵からも腕を回して彼の温もりを欲しがってしまう。 「朝思ったんだけど、この匂い……」 さっきまで撫でていた髪に鼻先を寄せた櫻は、香りの正体を探るように数度嗅ぐような仕草をしてくる。葵は櫻が付けてくれたヘアオイルの香りしか感じないが、都古にも今朝出会った瞬間に二つの匂いが混ざっていると指摘された。それほど強い匂いだっただろうか。 「もしかして上野のシャンプーと同じ?なんで?」 「よく分かりましたね。昨日上野先輩の部屋のお風呂借りたんです」 「え、なにそれ、聞いてないんだけど」 機嫌が悪くなったり、拗ねたりはされたが、これほど険しい声を出されたのは今日初めて。シャンプーを買い忘れたことを説明するが、今度はなぜ自分に相談しなかったのかと怒られる。 練習の邪魔をしたくなかったと言っても、幸樹の部屋に行かれるよりマシだと返された。 今日からは自分の部屋でシャワーを浴びられると説明すると幾分かは落ち着いてくれたが、なぜか演奏会が終わったら櫻の部屋に泊まる約束をさせられてしまった。それ自体を拒む理由は全くないどころか葵にとって嬉しい誘いだったけれど、櫻が怒った理由が気になる。 櫻と幸樹の仲が良くないことは知っている。だから櫻よりも幸樹と親しくしたのが気に入らなかったのだろうか。お互い心底嫌いあっているわけではなさそうなのが、どこか京介と都古の仲を彷彿とさせる。 「今日は随分長いこと話し込んでいたな」 櫻の部屋を出た葵は、自室に戻る前に隣の忍の元を訪れた。訪問客の察しはついていたのだろう。彼は扉を開くなり開口一番そう言って笑った。ピアノの音色が途切れる時間で葵がどのぐらい滞在したかが判別出来てしまうようだ。

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