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act.8月虹ワルツ<224>

「百井が立候補した話が広まれば、他にも候補者が現れるかもしれないしな」 「……え?」 「いっそ臨時で選挙を開催するのではなく、今年度から時期を早めるというのも一つの手な気もするな」 忍は名案だと言いたげだが、そうなると葵も部外者ではいられなくなる。それに次の期の役員を決めれば、必然的に忍たち三年の役員は引退という扱いになるだろう。 周りは葵が会長になるものだと認識しているようだが、立候補する心の準備など全く出来ていない。それにせっかく距離が縮まった先輩たちと離れるなんて寂しくてたまらない。 “おやすみ”と額にキスを落とされても、うまく笑顔を作れたかは自信がなかった。 今夜もまた眠れないかもしれない。支度を整えてベッドに潜り込んだはいいものの、様々な悩みに思考が奪われてちっとも気分が落ち着かない。京介と都古の代わりとして両脇にクマとうさぎを並べてみても、それは同じ。 でも明日は寝坊するわけにはいかない。先輩たちにこれ以上心配を掛けたくないし、何より明日から聖と爽が二泊三日の行事に参加してしまう。明朝を逃すとしばらく顔を合わすことが叶わなくなるのだ。 焦れば焦るほど目が冴えてしまう。寝不足で正常な判断がつかず、一ノ瀬を馨と勘違いして着いていってしまった。あの時のことは十分反省したつもりだったのに。 京介に助けを求めに行こうとも思ったが、葵が一人部屋になることを一番不安がっていたのは彼だ。せっかく引っ越しを終えたのに戻れと言われかねない。 葵は悩んだ末、二人の友人を連れて窓辺に向かった。 役員の部屋は一般生徒の部屋とはあらゆる部分で作りが異なる。窓もその一つ。バルコニーに出られる窓はただのガラスではなく、ポイントとして学園の象徴となっている桐の花のステンドグランスがはめられている。主張しすぎず、あくまで控えめに咲く花のデザインを、葵は気に入っていた。薄紫色のガラスが月明かりに透ける様を眺めるだけでも、心が穏やかになる。 夜風を取り込むために窓を開くと、櫻の部屋から聞こえるピアノの音色がより鮮明なものになる。優しく響くそれに耳を傾ければ、自然と眠気が訪れるかもしれない。 その作戦はうまくいった。櫻のピアノが子守唄代わりに葵の意識を蕩けさせてくれる。クマの大きな体に背を預け、うさぎを抱きしめながら夜風に揺られていると瞼が段々と重くなる感覚に陥った。 「ベッド……いかなきゃ」 バルコニーに半分足を出した状態で眠るなんて、誰に知られても絶対に叱られると思う。だからなんとか体を起こそうとするが、心のどこかではもうこのまま眠りたいと思っている自分もいる。 ブランケットを持ってくれば良かった。そう後悔してももう遅い。せめて体が冷えないようにクマの腕をウエストに回させ、うさぎをめいっぱい抱きしめる。 肌を撫でる柔らかい夜風と、優しいノクターンに包まれて、葵はゆっくりと意識を手放した。

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