1332 / 1636

act.8月虹ワルツ<230>

「何が望みだ?」 穂高が望んでいることなど、葵の幸せを守ることでしかない。ただそれを柾相手に口にするのはさすがに出過ぎた真似。自分の父親である忠司に主張するのとは訳が違う。 だから穂高は藤沢家を守ることという教科書通りの回答を口にした。柾の目がますます薄められる。穂高の真意を見透かそうとする仕草だ。だが穂高は動揺を見せずにいつも通りの顔で見つめ返す。 すると柾は話を大きく転換させてきた。 「穂高。あの日、お前が見たことを話してみなさい」 彼が指している日がいつなのかは問わずとも理解できる。エレナが亡くなったあの日の出来事を、今ここで話せと言うのだ。記者が葵や穂高に求めたがったこと。それに何の意味があるのかは分からない。ただ藤沢家の長である彼に逆らう選択肢はない。 事件が起こった時、穂高は一階のダイニングルームに居た。いつものようにエレナが食べ散らかした夕食の後片付けをしていたのだ。彼女がその頃気に入っていた南イタリアの料理を提供するレストランのデリバリーサービス。適当につままれたオードブルの皿と、飲みかけの赤ワインが注がれたグラスの処理をしていたことを覚えている。 穂高が二階に駆けつけたのは、大きな物音と共に葵の悲鳴が聞こえたから。その家で起こった一つ目の悲劇を連想させるには十分で、動揺するあまり手にしたグラスを床に落として割ってしまった記憶もある。 「それで、部屋はどんな様子だった?」 穂高の記憶の全てを引き出すように柾は仔細を執拗に聞きたがった。だが事件を目撃したその瞬間の記憶は朧げなものしか残っていない。 「薄暗かったように思います。ベッドサイドにランプが灯っているだけで、部屋自体の照明は点けられていなかったかと」 当時の自分は室内が暗かったことがせめてもの救いだと感じていた。もしもシャンデリアの明かりが点いていたら、苦悶する彼女の表情がもっとはっきり確認出来てしまっていたはずだ。葵の心に刻まれた深い傷を思えば、ほんの些細な違いに過ぎなかったのかもしれないけれど。 「室内にはエレナと葵の二人だけだったか?」 「いいえ、すでに奥様のマネージャーとスタッフの方がいらっしゃいました」 穂高が駆けつけた時にはエレナの体はシャンデリアから降ろされ、床に横たえられようとしていた。穂高はエレナの対応を彼らに任せ、泣きじゃくるあまり過呼吸を起こしていた葵をなんとか落ち着かせようと必死に抱き締めていたように思う。 それからエレナが家の外に運び出されて行った。救急車を呼ぶよりも、直接病院に連れて行ったほうが早い。誰かがそう口にしたからだ。 「エレナには近づいていないのか?」 「はい、ずっとお坊ちゃまのお傍におりましたので」 あの時すでに彼女が事切れていたのかどうかも分からない。ただ真っ青な顔でぴくりとも動かなかった様子だけが穂高の記憶に残っている。

ともだちにシェアしよう!