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act.8月虹ワルツ<231>
エレナを乗せた車が走り出すのを確認した後、穂高は馨に連絡を入れた。そして忠司にも。
病院に駆けつけるのが筋だろうと思ったが、エレナがどこに運び込まれたか分からず、穂高はただ混乱する葵を抱きしめて誰かから続報が来るのを待つことしか出来なかった。
一番に家に現れたのが馨だったことははっきりと覚えている。いつも通りの顔をして帰宅した馨は、泣き疲れて朦朧とする葵に近付きその耳元で囁いた。
“エレナは消えてしまったよ”
甘い声音で告げた残酷な現実。愛のない関係だったとはいえ、それなりの年月を共に暮らしていた相手だ。少なくとも穂高は憎い相手であるはずのエレナの死を痛ましく感じた。それなのに馨は悲しむどころか楽しげに笑っていた。その美しい笑顔は、穂高がそれまで出会った何よりも恐ろしかった。
「……なるほど」
馨が帰宅したところまで話し終えると、柾は口元に貯えた髭を指先でなぞりながら何かを考え込むような素振りを見せた。柾がこの話で何を確かめたかったのかが分からない。だがその表情から意図したものが引き出せたのだろうことは理解出来た。
「穂高。害虫は専門の業者で駆除をする。お前がわざわざ相手をする必要はない」
しばらくの沈黙のあと、柾は話題を記者へと戻した。それは明らかに穂高を遠ざける指示だ。こうしてはっきり命じられてしまえば、もう抵抗のしようがない。穂高は柾の貴重な時間を奪ったことを詫び、頭を下げて部屋を後にした。
穂高が見えていなかっただけで、あの夜記者が疑うように何かが起きていたのだろうか。それが一体何かは分からぬままだが、柾に語りながら違和感を覚えたのも事実。
シノブを失ってからのエレナはそれまで以上に情緒に波があったが、あの夜お気に入りのイタリアンとワインを嗜んでいたエレナは、いつになく上機嫌だった。鼻歌まで歌うほどに。その様子と、自死を結びつけるのはあまりに不自然に思えた。
「穂高」
エレベーターを待ちながら柾とのやりとりを反芻していた穂高を、忠司が追いかけてきた。彼とは先日葵のことで揉めて以来まともに言葉を交わしていなかった。今回柾のアポイントを取ったのも、忠司を通さずにいた。そのことに文句でも言いにきたのだろうが、穂高だって彼に言いたいことがある。
「何を隠しているんです?」
柾の一番の側近である彼が事実を把握していないわけがない。それに忠司が穂高からの連絡を受けた後どう動いたのかを確認したことがなかった。エレナが運ばれた先の病院に向かったのかどうかも知らない。
「柾様の仰った通り、あとはこちらに任せなさい」
「私には知る権利がないと?」
はぐらかされるとますます疑念が深まる。思わず睨みつければ、忠司は困ったように眉をひそめたが、それ以上の反応は見せなかった。
「貴方に任せればお坊ちゃまの安全は確保されるんですね?」
穂高にとっては何よりの優先事項だ。もしそれが誓えなければ言うことを聞くつもりはない。
「もちろん、お坊ちゃまのご友人を犠牲にすることなく」
記者が葵の身近な人物も狙いに定めていたことは彼らにも伝えていた。葵の大切な友人をただ藤沢家の損得だけで切り捨てようとする忠司のことだ。こうして釘を刺しておかなければ、最低な取引を行うとも限らない。
忠司は“分かっている”とは返してきたが、父親ながら心からは信頼出来そうもない。
忠司はまだ何かを伝えたがっていたが、穂高はやってきたエレベーターに無言で乗り込みその場を立ち去った。
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