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act.8月虹ワルツ<232>

自分のデスクがある秘書室に近づくと、中から華やかな笑い声が聞こえてくる。もう昼休憩の時間かと腕時計を確かめるが、規定の時間までまだ一時間以上もある。 時折雑談は生まれるが、基本的に静かに仕事をこなすメンバーが多い部署だ。珍しいと思いながら扉を開けると、その中心には椿の姿があった。女性社員に混ざって色とりどりのマカロンに手を伸ばしている。 「あ、秋吉さんも食べる?おすすめは今月の限定フレーバー、アプリコットだってさ」 上司の登場で社員たちは一斉に姿勢を正して自席に戻っていくが、穂高の椅子に我が物顔で座る椿だけは、悪びれもせずに菓子の詰まった箱を差し出してくる。 「なんとかっておっさんがどっかの会社から貰ってきたらしいよ」 「なぜこちらにいらっしゃるんです?」 椿の言葉遣いをいちいち注意していたらキリがない。 それよりも彼には良家の子息としての最低限の振る舞いや、社会人としての基礎的なマナーを教わるプログラムを与えているはずだ。あまり真面目に受講していないことは知っているが、こう堂々とサボられたのでは手の施しようがない。 それに椿だけがサボるのならまだしも、秘書室の社員たちが巻き込まれるのは困る。評価はさておき、彼は会長の孫であり社長の息子。彼に誘われたら一般社員は逆らうことが出来ない。 彼女たちの様子を見るに仕事を邪魔されて困っているというよりは、見目麗しい御曹司とのおしゃべりを楽しんでいたようだが、それはそれで厄介だ。穂高の管理下で妙な関係に発展されても困る。 「ちょっと長めの休憩?」 「でしたらそろそろお戻りになる時間ではないでしょうか」 「はいはい、出て行きゃいいんでしょ」 これといった用事はなかったらしい。椿は案外あっさりと席を退き、女性社員たちに手を振りながら退出していった。気ままに穂高を振り回そうとする気質は、馨を彷彿とさせる。 本来の仕事に戻ってしばらく。卓上のカレンダーを手に取り、少し先の予定を確認しようとページを捲った時に異変に気が付く。 特別な予定がある時にだけ付ける星印。それが至る所に量産されているのだ。こんな悪戯をする人物はこの部屋には存在しない。犯人はまず間違いなく先ほどまでこの机にいた椿だろう。 無数に並んだ星を見て思い出すのは幼い日の葵。 “ほだか、おほしさま” 冬耶に星の描き方を習ったらしい。練習したいという葵の願いを聞いて、穂高は自分が学習用に使っていたノートを差し出した。空白はあっという間に埋まり、満足げに星の浮かぶページを見せてきた葵の笑顔が今も心に残っている。 あの時の葵と、子供っぽい悪戯を仕掛けてきた椿が重なってしまう。だからだろうか。苛立つどころか、不思議と穂高の心を和らげる。 性格はまるで違う。顔立ちだって共通項はあれど、与える印象も対照的。それなのに時折兄弟だと思わせる何かを感じさせる。 冬耶との面会がうまくいかなかったことは知っているが、やはり椿をこちら側に引き込めるかどうかで戦局が大きく変わるだろう。気まぐれで掴みどころのない上に、沸点が低い椿をどこまでコントロール出来るかに掛かっている。 椿の描いた少々不格好な星をなぞりながら、穂高はいつかの葵に思いを馳せた。

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