1342 / 1636

act.8月虹ワルツ<240>

「お前、なんかあるとすぐ飯食えなくなるだろ。あと眠れてもないよな?」 「……昨日はちゃんと寝られたよ」 「また寝坊して朝飯抜かしたくせに」 寝坊したのは事実。ほんの少し微睡むつもりでベッドを離れたから、携帯や目覚まし時計は枕元に置いたままで、アラームの音になかなか気が付けなかったのだ。 でも睡眠時間に関しては一昨日のように極端に短くはなかったはずだ。でも所詮窓辺でクマのぬいぐるみに身を預けての睡眠。目覚めた時には体の節々が違和感を訴えていたし、頭がスッキリしない感覚もある。 体が十分に休まらなかったから、食欲が失せているのかもしれない。でも正直に打ち明ければ絶対に怒られる。そもそもうまく眠れていないのは引越しのせいだ。おそらく京介はそれに気が付いていて、葵の口から助けを求めさせようとしている。 「ベッドが変わったから少し寝辛いのかも」 「遥さんが使ってたやつだろ?泊まりに行ってたじゃねぇか」 なんとか口にした言い訳もすぐに跳ね除けられる。京介の言う通り、遥の腕の中ならベッドの硬さの違いなど気にせずにぐっすり眠れていた。もう葵にはもっともらしい理由の手札など残されていない。 「追い詰めんな。アオ、大丈夫」 思わず俯いた葵の前からほとんど手つかずのトレーが消えた。隣に座る都古が自分の手元に引き寄せたのだ。葵に向ける目は優しいが、京介には棘のある声を出す。また二人がぶつかる原因を作ってしまった。どう振る舞ってもうまくいかないことにますます気分が落ち込んでしまう。 京介はそれ以上葵や都古に言い返すようなことはしなかったが、代わりに自分の右隣に座っていた奈央に声を掛けた。 「高山さん、もう普通に食っていいっすよ」 「え、あぁ……うん」 少し気まずそうに葵に視線をやってから箸を動かし始めたのを見て、奈央の気遣いを知る。葵が一人残されて焦らないようにと、自身のペースを抑えてくれていたらしい。 「ごめんなさい、奈央さん」 「ううん、一緒に食事の時間を楽しみたかっただけだから。気にしないで」 気負わせないように言葉を選んで微笑んでくれる奈央の優しさには今まで何度も救われてきた。生徒会に入ったばかりで右も左も分からなかった葵を支えてくれたのも奈央だ。 冬耶や遥は葵を気に掛けてはくれていたけれど、活動中は葵だけに構ってはいられないほど忙しい時も多かった。そんな時は親切な奈央の傍をうろちょろと彷徨っていたように思う。久しぶりに瀬戸と会話をしたせいか、当時のことが自然と蘇ってきた。 葵にとっての奈央がそうであったように、生徒会入りを志す聖や爽、そして新しく名乗りを上げた波琉にとって葵が一番身近な先輩でありたい。そのためにも、一人部屋で躓くような情けない状態から早く脱しなくては。

ともだちにシェアしよう!