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act.8月虹ワルツ<248>

「葵くん、捻挫は随分良くなったみたいですね。階段も補助なしで上り下り出来るようになったと本人から聞きました」 会いたがったのはこちらだというのに、会話のきっかけは宮岡が作り出してくれる。 冬耶が一ノ瀬に襲われた直後の葵を連れて行った先は宮岡の元だった。時間が経ってもあれほど全身に陵辱の痕が残っているのだから、直後の姿などさぞ酷い有様だったのだろう。心底安堵したように告げてくる宮岡の表情でそれを察する。 「あーちゃんから報告してたんですね」 「えぇ、試験の結果も聞きました。無事に目標に届いたみたいですね。本当に強い子だ」 目を薄めて笑う姿には葵への深い愛情を感じる。やはり彼にとっては患者以上の存在であることは明らかだ。 早速今日の本題を切り出そうとしたけれど、宮岡が不意に表情を曇らせたことがそれを押しとどめた。 「葵くんから眠りにつきやすくなる方法を尋ねられました。何かあったのかな?」 葵が助けを求めたのは遥でも冬耶でもなく、宮岡だったようだ。主治医になら素直になれると知って複雑な気持ちにさせられる。 若葉との接触やそれによって都古が怪我を負ったこと、部屋を役員専用のフロアに移したことなど、学園に戻ってからの葵の状況を冬耶が簡潔に伝えると、黙って聞いていた宮岡の表情がさらに曇っていく。 「今の葵くんにあまり大きな変化を与えるのはお勧めしかねるかな。といっても、すでに引っ越してしまった以上、戻ることを葵くんが望むとは思えないし、難しいですね」 短い付き合いの中でも宮岡は葵の性格をよく把握しているようだ。彼の予測は当たっている。それに、京介と都古の間の溝が分かりやすく表面化した以上、二人の間に帰りたいとは言いづらくなってしまっただろう。 「今はまだなかなか眠りにつけないというだけで済んでいるけれど、悪夢を見てしまうと自分の体を傷つけてしまうことがあるんですよね?」 「はい、不安やパニックに陥ってもそういう行動に走る傾向にあります」 中等部に上がってからは頻度も減ってきたが、葵にとっては自身を落ち着けるための行為でもある。冬耶の言う通り心のバランスを崩した時には無意識に腕を噛んでしまいがちだ。 「不眠が続くと精神的に不安定になりやすくなりますし、対策は考えてあげたいですね。睡眠に入りやすくする薬を処方することも出来ますが……」 「先生はあーちゃんにどう答えたんですか?」 「あぁ、眠れる方法ですか。湯船に浸かるとか、一度ベッドを離れてリラックスしてみるとか、そういうことを伝えました」 一般的な不眠の対策を伝えるだけに留め、薬の存在はまだ話していないようだ。薬に頼ること自体を否定するつもりはないが、慎重に事を進めようとする宮岡の対応に安堵させられる。 「自然な眠気が訪れるまで、誰か喋り相手になってあげられる人はいないかな?一人でいると色々と考え込み過ぎてしまうだろうから」 本来ならその役割を遥たちが担うつもりでいた。傍には居られずとも、電話で繋がることができる。近いうちにフランスに戻ることを考えたら、今のうちに自ら助けを求めて来られるように誘導してやりたかった。 でもやはり遠慮が先立つのだろう。週末に改めて言い聞かせるつもりではあるが、その前に葵がダウンしてしまったら元も子もない。

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