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act.8月虹ワルツ<260>
* * * * * *
今日も目元を赤くして現れた葵。何でもないと言い張った葵の意地を受け入れてやったが、さすがに二日続くとその理由を暴きたくなる。
「おいで、葵ちゃん」
運んでくれた食事の包みをテーブルの端に置いてソファへと腰を下ろした櫻は、己の膝を叩いて葵を呼び寄せる。少しだけ躊躇う様子を見せた後、葵は膝の上ではなく寄り添うように隣に座ってきた。その体を抱き寄せると、素直に凭れかかってくる。でも口では相変わらず“何でもない”と言う。その強情さが憎らしい。
「眠れてないのは僕のピアノのせい?」
アプローチを少し変えて尋ねれば、葵はすぐに首を横に振った。その拍子に揺れる髪からは、朝付けてやったヘアオイルの香りが漂う。
今朝の葵は寝坊はせずとも、十分に眠れたとは思えない顔つきで現れた。引っ越して三日で、葵の寝癖だらけの髪を整えるのはすっかり櫻の役目になっていた。でもそうして体裁を整えてやっても、根本的な原因を解決出来なければ意味がない。
「眠るときは窓を開けてるんです。櫻先輩のピアノの音が聞こえるように」
「そう、じゃあ僕のピアノは葵ちゃんにとって子守唄になってる?」
「はい、すごく。綺麗な曲だなって思うだけじゃなくて、櫻先輩が起きてるんだって安心も出来るから」
全面的に頼ってはこないけれど、こうして胸の内を明かしてくるようになったのは自分たちの関係が深まったことを示しているように思う。
「このままお泊まりする?」
細い腰に腕を回し、引き寄せながら誘いを掛ける。葵を存分に構ってやることは出来ないが、ピアノの音色が響いていても気にならないというのなら隣のベッドで寝かしつけるぐらい何の問題もない。
でも葵は誘いに乗らなかった。忍や奈央がそれとなく手を差し伸べても拒み続けているようだからこの反応は予想出来ていたけれど、どうにも寂しい気持ちにさせられる。
「甘えん坊のくせに、どうして甘えてこないの?」
寂しがりで泣き虫なことだって知っている。今更何を取り繕おうというのだろう。今だって揃いの香りがする髪に口付けると、嬉しそうに擦り寄ってくる。このまま抱き締めてベッドに入ってやれば、眠れるはずだ。
「普通のことが出来るようになりたいんです」
「それって一人で眠ること?」
「……はい。皆が当たり前に出来ることだから」
確かに葵の言う通り、高校生にもなって一人で眠りにつくのを怖がるのはかなりの少数派と言えるだろう。でも葵はこれほど孤独を恐れてしまう事情を抱えている。それに今までは葵の周囲の人間が過剰なほど大事に育ててきたのだ。
冬耶のことだから何か考えはあるのだろうが、急に独り立ちを強いるなんて酷なことをするものだと思う。もう少し段階を踏んでやればいいのに。
「誰にでも苦手とするものとか、怖いものがあるのは普通だと思うけど」
「櫻先輩にもありますか?……キノコ、とか?」
「食べ物の好みの話は今してないでしょ」
人を泣かせたり詰ったりすることはあっても、慰める経験は不足している。だから慎重に言葉を選んでいるというのに、葵はこうして調子を崩してくる。叱るようにツンと額を突けば、葵は痛がるどころか表情を和らげた。
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