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act.8月虹ワルツ<261>

「苦手なものはそれなりにあるよ。人より潔癖な部類に入るだろうし」 不潔な場所は見るだけでも卒倒しそうになるし、他人と何かを共有するのは御免だ。友人ならまだ耐えられるが、体を触れられたら吐く自信だってある。それは櫻自身生まれ持った気質もあるけれど、経験によるものが大きい。 「でも克服する気は全くない」 「……それはどうして、ですか?」 「だって無理なものはどうあがいても無理でしょ。誰に迷惑を掛けたとしても、自分を嫌なものから守ってあげられるのは結局自分しかいないしね」 櫻の言葉で葵の瞳が動揺するように揺れる。 もちろん櫻だって同室だった忍には随分迷惑を掛けた自覚ぐらいはある。多少の申し訳なさも感じた。でも彼もそれなりに図々しかったおかげで五年も共に生活を送ってこれた。一人部屋の快適さを知ってしまった今、元に戻れと言われたらさすがに困るけれど。 「葵ちゃんと一緒に寝たいと思ってくれてる人がいて、葵ちゃんも一人で眠るのが寂しい。互いの利害が一致してるのにそこに何の問題があるの?」 追い詰めるような聞き方をしたつもりはないが、葵は困ったように俯いてしまった。小さな手が太腿の上でぎゅっと握られたことに気が付き、櫻は己の手を重ねる。 「で、改めて聞くけど、お泊まりする?」 尋ねながら顔を覗き込むと、そこには涙を浮かべた瞳が待っていた。心を揺さぶられているのが分かる。あともう一押しするにはどうしたらいいだろう。櫻が悩むうちに、葵のほうが先に沈黙を破った。 「……演奏会が、終わったら」 受け入れているようで、それはやんわりとした拒絶だった。でも甘えたい意思は感じられる。練習に励む櫻を邪魔したくないという思いが勝っただけだろう。 「じゃあ奈央に来てもらったら?」 自分以外の選択肢を提示せざるをえないのならば、葵への好意は間違いなくあっても手を出すことはないと言い切れる奈央しかない。それで不満なら忍でも構わないが、キスや愛撫ぐらいは隙を見て仕掛けそうなのが懸念点だ。 「眠るコツは掴めた気がするんです。だからもう少しだけ、頑張ってみます」 「コツって?あんまり効果があったようには思えないけど」 寝癖は葵との触れ合いの機会を生んでくれるから良いとしても、せっかくの可愛い顔にうっすらクマが浮かんでいる姿はこれ以上拝みたくはない。肌に触れれば葵はくすぐったそうに笑うけれど、こちらは真剣に心配しているのだ。 「ぬいぐるみをぎゅってして、夜風に当たるんです。それで櫻先輩のピアノを聞いてたら、ちょっとずつ眠たくなってくるんですよ」 何とも心許ない方法ではあるが、自分が葵の眠りに一役買っているのだと言われると、あまり強くは否定できない。これを分かっていて言っているなら大したものだと思わせる。 今日はこれ以上追及することをやめた。深入りしすぎると葵はムキになるだろうし、そうなると自分は意図せず棘のある言葉を吐いてしまうかもしれない。そのぐらいのコントロールは出来るようになってきた。

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