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act.8月虹ワルツ<262>

櫻は一旦葵の傍を離れ、ピアノの上に置いていた封筒を取りに向かった。一昨日も昨日も、うまく切り出せずにいたせいで手元に残ったままの招待状だ。 未だに葵へのうまい誘い文句は思い浮かんでいない。葵を連れて来たがっているのは忍なのだという往生際の悪い言い分が櫻の思考を邪魔するのだ。 「これ、何ですか?」 黙って差し出せば、葵は不思議そうな表情を浮かべながら両手で丁寧に受け取ってみせる。 「開けるのは部屋に戻ってから。読んで何か気になることがあれば、忍に聞いて」 「……はい、分かりました」 櫻が選んだのは、忍に全てを押し付ける方法だった。この招待状さえ葵に渡せればそれで文句はないはずだ。あとは好きにすればいい。 櫻はそれ以上封筒のことに触れられる前に、テーブルの隅ですっかり冷めてしまった食事を引き寄せる。 今日はクリーム仕立てのスープパスタらしい。こういうところには決まって忍び込みたがるキノコ類の存在はなく、サーモンとほうれん草だけが浮かんでいることに安堵させられる。葵が配慮してくれたのかもしれない。 レンジで温めるためにキッチンに向かおうとすると、葵に“あの”と呼び止められた。 「この中身って、手紙ですか?それって櫻先輩が書いたもの?」 封筒を手にしたままの葵が不安げな顔をしてこちらを見上げてくる。 「僕が書いたものではない、かな」 「何が書いてあるかは知ってますか?」 これが何かを直接問わずに葵はどうにも回りくどい聞き方をしてくる。櫻の言いつけを守ろうとしているというより、どこか怯えのようなものを感じた。その理由は分からないが、これは葵を喜ばせるために贈ったもの。そんな顔をさせるために渡したわけではない。 「一昨日話したご褒美。僕の誘いに乗らない意地っ張りな子にあげるかどうか迷ったけどね」 もう一度腰を下ろして葵と向き合いながらそう告げると、強張っていた表情がようやく緩む。 一昨日も思ったが、葵は櫻が演奏会に誘おうとしているなんてちっとも予想していないようだ。ある意味思惑通りではあるのだけれど、それはそれで面白くないなんて身勝手なことを感じる。 「それじゃあ、おやすみなさい」 櫻が食事を終えたのを見届けて、葵は当然のように席を立つ。それをドアまで見送ってお別れだ。 放課後の生徒会活動ぐらいしかまともに顔を合わせる機会を得られなかった以前の状態を思えば、今は随分恵まれている。こうして葵は毎日のように櫻の元に足を運び、それなりに長い時間を共に過ごしてくれるのだから。でも、欲望は満たされるどころか、ますます膨らんでいく。 「おやすみ、また明日ね」 このまま引き止めておけたらどれほどいいか。挨拶と共に贈ったキスをくすぐったそうに受け入れる葵を見て、そんなことを思う。 演奏会が終わってしまったら、葵がこうして櫻を甘やかすことはなくなるだろう。でも同時に、葵は普通に泊まりに来てくれるのだと約束もしてくれた。 終わってほしくないような、終わってほしいような。相反する二つの思いに揺さぶられながら、今夜も鍵盤の前の定位置に腰を下ろした。

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