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act.8月虹ワルツ<265>

「……パパ、の?」 このクマのぬいぐるみの送り主は馨。それを考えれば、この番号の主も馨と考えるのが妥当だ。こうして外すまで、裏側に数字が記されているなんて全く分からなかった。それは葵だけでなく、先に手にしていた京介や冬耶も同じだろう。 この部屋に一人だと実感した時以上に心臓がバクバクと嫌な音を立てて鼓動し始める。 冬耶の話では、馨は葵を返してほしいと主張しているらしい。そのために学費を払おうとしたり、陽平に交渉を持ちかけたりしていると言っていた。 でも馨の手を取れば、葵が大切に思う全ての人と会えなくなるのだという。自分に新しく出来た家族も、学園の友人も全てを失うことになる。また人形に逆戻り。葵はそれが怖いと主張しただけで、馨の存在自体を拒んだわけではない。西名家の優しさに甘え続けることが本当に正解なのかも分からない。 宙ぶらりんのまま蓋をしていた感情が、たった11桁の数字でどうしようもなく湧き上がって来てしまう。 馨に一人で会いに行かないことは冬耶と約束していた。破るつもりなどなかった。でも目の前に馨の声が聞ける番号があるのだ。その事実が葵をひどく誘惑してくる。 熱に浮かされたように、指が勝手に携帯の画面を操作する。一つずつ数字を打ち込み、あとは通話ボタンを押すだけ。まだ発信もしていないのに気道がギュッと締まる感覚に陥る。感情が昂ると起こる過呼吸の前兆だ。 「パパ、パパ」 ただ縋るような声で馨を呼ぶことしかできない。 ずっと会いたかった。もう一度その腕で抱き締めて、いつもみたいに“愛してる”と囁いてほしかった。今度こそパパの望むいい子でいるからと何度願ったか分からない。それが叶わないと理解し、絶望して初めて葵は馨の存在を記憶の奥底に閉じ込めることにしたのだ。それでうまくやれていたのに。 数字の羅列が視界で滲んだことで、自分が泣いていることに気が付く。このまま泣いていたら確実に目元が腫れてしまう。そうしたらまた皆に心配を掛けることになる。だから早く泣き止まなくては。そう思えば思うほど、涙はとめどなく溢れてくる。 どのぐらいそうしていただろう。シーツに突っ伏してぐちゃぐちゃの思考に囚われていた葵の意識を現実に引き戻したのは、この場にそぐわない子供向けアニメのオープニングソングだった。 それは小さい頃京介が好んで観ていたヒーロー戦隊ものの番組テーマ。京介は昔の趣味を掘り起こされて気に入らない顔をしていたけれど、彼からの電話やメッセージが届いた時の着信音をこの曲に設定していたのだ。 縋るように手を伸ばして携帯を取ると、そこには“おやすみ”とだけ記されている。 昨日食堂で妙な雰囲気のままお別れした後も、京介はこんな風にメッセージをくれた。朝もいつも以上に口数は少なかったが葵を迎えに来てくれたし、思うところはあったとしても変わらない日常を葵に与えてくれている。 きっと今電話を掛ければ、京介はすぐに出てくれる。助けてほしいと言えば抱き締めにも来てくれる。でも葵が馨に心を揺さぶられていると知ったら、また彼を傷つけることになる。 このリボンの存在には気が付かなかったことにすればいい。何も見なかったことにしてしまえばそれで済む。 泣きすぎて酸欠状態の体をなんとか起こして、葵はベッドを降りる。思い出を沢山詰め込んだ宝箱があるのはリビングの本棚。おぼつかない足取りで向かったその先に馨からの贈り物を封じ込めた。 今夜もまたすんなり眠れそうもない。寝室に戻った葵はブランケットとぬいぐるみを連れてバルコニーに出た。 窓辺で寝転がるよりも思い切ってバルコニーに出てしまえば、ピアノの音色がより鮮明に聴こえる。夜風が全身を包む感覚も心地よい。昨夜それに気が付いた葵は、バルコニーそのものをベッドにしてしまうことを思いついたのだ。 陶器タイルの床材は直接腰を下ろすのには冷たすぎる。だから大判のバスタオルをシーツ代わりに敷いていた。柵に凭れるようにクマのぬいぐるみを座らせ、葵はその腹を枕代わりに身を寄せる。腕にはきちんとうさぎも収まっている。あとはブランケットで身を包めば完成だ。 これが褒められた行為ではないことは分かっているものの、昨日はこれで眠ることが出来た。寝坊だってしなかった。肩や首が軋むような痛みを訴えてくることぐらいが難点で、今の葵にはこれが唯一の解決法に思えている。 馨のことは思い出さない。明日帰ってくる聖や爽のこと、それから週末の予定に加わった櫻の演奏会のことを考えよう。固く目を瞑った葵は自分にそう言い聞かせて、必死に眠りにつこうと試みる。 でも何を考えても、片隅で“葵”と囁くように呼ぶ馨の声がする。優しくて、恐ろしくて、とびきり甘い声。 どうして置いていかれたのだろう。何がいけなかったのだろう。なぜ今になって葵を迎えに来たのだろう。 また愛してくれるのだろうか。 気が付いたらこうして馨のことだけを考えてしまう。彼の幻影を振り払うようにぬいぐるみを抱き締め直す。その繰り返し。早く朝が来てほしい。葵は祈るような気持ちで微睡に落ちていった。

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