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act.8月虹ワルツ<268>
ここのところ爽の携帯を鳴らすのは家族以外で葵ぐらい。その葵も、すでに二時間以上前に“おやすみ”と連絡を送ってきたからとっくに眠ってしまっているだろう。その証拠に爽が返したメッセージも未読のままだ。
学園から姿を消し、詳細が一切分からないままだった先々週に比べれば、連絡が取れる状態でたった三日間離れることのほうが随分マシだ。でも昨日の朝見送りに来ていた葵は明らかに寝不足の顔をしていた。きっと新しい部屋で過ごすことに慣れていないのだと予想がつく。
せめて葵を元気づけようと積極的にオリエンテーション中の様子を発信したけれど、どれほど効果があるのかは分からない。
明日になれば葵に会える。それが分かっていても、強がりな先輩が心配で堪らなかった。誕生日に三人で撮った写真が待ち受けの携帯を見下ろしながら、爽は深く息を吐き出した。
遠くから時折同級生の笑い声が聞こえてくる。上級生もおらず、引率の教師も最小限という気楽なイベントを心置きなく楽しんでいるようだ。だがその声に混じって、時折タンッと軽やかな足音と共にゴムの擦れるような音が響いているのにも気が付いた。
音の発信源を探ると、それは部屋が立ち並ぶ二階からではなく、この階のどこかからだと分かる。施設のスタッフすら姿の見えない夜更けに誰が何をしているのか。好奇心に駆られた爽は音の鳴る方へゆっくりと足を進めた。
一階の奥にある大広間に向かうための幅の広い廊下は、その一面に大きなガラス窓がはめられている。昼間は緑豊かな雄大な山々の景色を臨む美しい仕掛けになっているが、夜はただ明かり一つない暗闇が広がっているだけ。必然的に室内の灯りを反射して鏡のような役割を果たしていた。
そのガラスの前で一人の少年が一心不乱に舞っている。しなやかに手や足を動かすたびに、淡い水色に染められた柔らかそうな髪がふわりと跳ねた。覗く耳にワイヤレスのイヤホンが差し込まれているのが見えて、彼がそこから流れる音に合わせて踊っているのだと理解する。
ゆったりしたサイズのTシャツから覗く首元や鎖骨には汗が滲んでいる。それなりに長い時間ここに居るのだろう。
“室生伊吹”
彼の名前は昨夜小太郎から伝え聞いていた。爽が行きのバスで観ていたバンドを彼も好きだという情報と共に。でも小太郎の話では、軽音部で組んだバンドのベーシストではなかったか。
ダンスに関してはこれといった知識はないし、音が聞こえない状態での動きでは正確な判断は難しいが、昨日今日始めたような趣味のレベルとはとても思えない。
上げた足の高さで分かる柔軟性も、全く軸のブレないターンも。そこまで観察した時、彼はぴたりと動きを止めた。回る視界の端に爽を見つけたのだろう。
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