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act.8月虹ワルツ<269>
「あー、もしかして爽?」
盗み見られていたことに気を悪くするでもなく、伊吹は耳からイヤホンを外して爽の元へとやってくる。話しかけてきたことにも、いきなり呼び捨てされたことにも驚かされたが、あまりにも自然で気にするほうがおかしいと思わされる。
踊っている時には感じなかったが、近づくと思った以上に彼が小柄だと感じる。底の厚いスニーカーを履いていてもこの高さなら、160そこそこしかないのではないか。
「ごめん、もしかして聖のほうだった?」
「あ、いや、爽で合ってる」
慌てて答えると、伊吹は“やっぱり”と言って笑った。その拍子に八重歯がチラリと覗く。それは耳に煌めくピアスや、Tシャツと同じくゆったりしたシルエットのハーフパンツと共に彼のやんちゃそうな印象を強める。
「タケから紹介するって聞いてたから。で、軽音部入んの?」
一体小太郎からどんな話を聞いたのだろう。確かにギターを嗜むことが出来る軽音部には興味がある。見学ぐらいはしてみようかと思っていた。でも入部を確定情報のように扱われるのはあまりにも先走りすぎだ。
「まだ決めてないけど」
「あれ、そうなんだ?うちツインギターにしたかったからちょうどいいと思ったんだけどな」
入部どころか、メンバー入りまで想定されていたらしい。誰がいるとも知らないグループに入れるわけがない。伊吹のことだって昨夜小太郎から聞いて初めて認識したぐらいなのだから。
「最近始めたばっかだし、誰かと組むとかそういうレベルじゃないから」
下手くそだと自称するのは嫌だったが、期待を寄せられているなら誤解をとくのは早いほうがいい。だが勇気を出して打ち明けても、伊吹は全く意に介さない様子。
「キーボードはピアノ経験者だからいいけど、他は俺以外ひどいもんよ。ギターもドラムもこの春から始めてっから」
演奏の様子を思い出したのか、伊吹は口元に笑みを携えながら床に置いたミネラルウォーターのボトルに手を伸ばす。自分以外と表現したということは、伊吹は経験者なのだろう。自分に自信のある口ぶりではあるが、仲間を馬鹿にするような空気は感じ取れない。
伊吹はボトルの水を煽りながら、近くのソファを指差した。そこに座って話そうということなのだろう。誘われるままに向かえば、少し不自然なぐらい距離を空けて伊吹も腰を下ろした。近くに座って欲しいというわけではもちろんないが、友好的な態度からは違和感を覚える。
でも伊吹は爽が疑問に思ったことを知ってか知らずか、“汗臭かったらごめん”と言って額に滲んだままの汗をTシャツの袖で拭ってみせた。それを気にして、誘ってきた割に距離を離したらしい。
「……ダンスもやってんの?」
自ら相手を知るような質問をするのは気が引けたが、先ほどの伊吹の様子を尋ねることぐらい順当な会話の流れだろう。
「うん、それでこの学校入ったしね」
「へぇ、そういう入学の仕方もあるんだ」
「じゃなかったら絶対入れてないよ。こんな頭いいとこ」
勉強は苦手なタイプらしい。あっけらかんと言い放つ潔い態度は清々しさを感じる。
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