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act.8月虹ワルツ<272>

* * * * * * あの夜葵を見つけた倉庫の近くは、外来用の駐車場の傍にある。だから自然とその周辺が学園に住み着いた猫と戯れるスポットになっていた。でも事件以降、若葉は餌を与える場所を寮の裏手に移した。 あの事件の調査のためか生徒会の役員連中が顔を出しに来たり、壊れた窓や鍵を直すために業者が訪れたり、警備の巡回の頻度が増えたりと、落ち着ける場所ではなくなったからだ。 普段は食堂から出る残飯を漁り、若葉のような猫好きが気まぐれに与える餌で食い繋いでいるようだが、若葉のせいで舌の肥えた彼らは随分不満だったようだ。 いつものようにパッケージを開いて足元に広げると、途端に物凄い勢いで猫たちが集まり食いついてきた。 「もうちょっと落ち着いて食えって」 ここではリーダー格の猫が他の猫を押し除けて貪っている姿を見て、思わず苦笑いが浮かぶ。跳ね除けられた体の小さな猫のために、もう一つ餌場を用意してやるとようやく混乱が鎮まっていく。 「チビ、うち来るか?」 餌には目もくれず、あぐらをかいた若葉の足によじ登ってこようとする子猫を見ていると、思わずそんな呟きが漏れてしまう。これ以上増やすなと徹に言われているが、今更これほど小さな猫一匹増えたところで何が変わるのだろうか。 それに若葉には徹の指示を聞く理由はない。若葉は彼の主人なのだし、徹だって若葉に拾われた野良猫のようなものなのだから。 茶トラの体を撫でてやると、甘えるように喉を鳴らす音が響く。若葉を見上げるゴールドの瞳。この瞳を見つめていると、似た色を持つ人物のことを思い出す。この茶トラよりも柔らかい印象を与えつつも深みのある不思議な色。 闇夜に映える色は日常使いしているレンズとして選ぶぐらい気に入っている。だからあんな瞳を持って生まれてくるなんて、葵を羨ましく感じる。 先週ここで同じように猫に餌を与えに来た若葉は、雨の中ベランダに出ていた葵と視線を絡ませた。屋上での接触が彼に恐怖を与えなかったはずがないのに、あの時の葵は若葉を無視することを躊躇う様子を見せた。若葉にとっては理解の出来ない態度で、あれからずっと胸に引っかかっていた。 自然とあの時葵がいた部屋に目を向けるが、当然のように誰の姿もない。 「そういや、引っ越したんだっけ」 未里がそんなことを口にしていた。愛しい奈央と物理的な距離を縮めたのが悔しくて堪らないらしい。今更未里が何を嘆いたところで無駄だというのに、つくづく馬鹿な生き物だと思う。 奈央と遊ばせてやる機会を作ると言ったまま放置していたが、そろそろ動いてやろうか。奈央や葵が暮らしているフロアは寮の最上階。他とは切り離されているそこは、特別なカードが無ければ出入りが出来ない。 清掃や警備のスタッフなら所持しているのは知っているが、それをくすねて正面から忍び込むのはさすがにリスクが大きい。ならばやはり校舎で捕まえるのが妥当だろうか。 そんなことを思い描きながら若葉は役員が暮らしている階を見上げた。ルーフトップのバルコニーはその造りからして他の階とは異なっている。おそらく内装もさぞ豪奢に仕立て上げられていることだろう。 若葉の趣味ではないが、気品あるデザインは一般的には美しいものなのだとは思う。

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