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act.8月虹ワルツ<273>

「……あ?」 今まさに褒めるようなことを思い浮かべた若葉は異質な雰囲気のバルコニーに目が留まり、思わず怪訝な声を上げてしまう。窓を囲うように半円形にせりだしたバルコニーの柵から毛むくじゃらの何かがはみ出ているのだ。毛布の類かと思ったが、少し角度を変えて目をこらすと、それがぬいぐるみだというのが分かる。 正体が分かったはいいが、なぜあんなものが外に出ているのかが理解出来ない。それに、ぬいぐるみがいるのとは逆の柵から人の足のようなものが見える。にわかには信じられないが、あそこで誰かが寝ているのだろう。 馬鹿なことをしそうな人物で思い当たるのは幸樹ぐらいだが、あんなに足が小さいわけがない。あの面子の中で圧倒的に小柄なのは葵。 もしもあんなに無防備な場所で眠りこけているのが葵なら若葉にとっては願ってもないチャンスだ。葵でなくてもそれはそれで構わない。 若葉は早速寮監が詰めている部屋に向かった。明かりはついているが、ほとんど機能していないことを知っている。一応は存在する寮則を破って深夜に出入りしようが、若葉が咎められたことは一度もない。だからこうして寮のエントランスに現れても、その受付の窓が開くことはなかった。 でも今日は生憎彼に用がある。窓を叩くと、驚きと怯えの色を浮かべた寮監が恐る恐る顔を出した。屋上に入る鍵を寄越せと命じれば、自分の職務を全うしようとした彼に貸し出せないと言い切られる。 「俺の大事なモンがあそこに飛ばされちゃったんだよネ。それ取りに行きたいの」 「でしたら、私が代わりに取りに行きますので」 もちろん何かを屋上に巻き上げるほど、今夜の風は強くない。出来る限り穏便に済ませたいのか、分かりきった嘘を否定はせず、寮監は慎重な態度で受け答えする。 「いいって。面倒かけちゃ悪いし。ネ?」 「しかし生徒に鍵を渡すのは規約違反でして」 「屋上で何の悪さが出来ると思う?」 真っ直ぐに目を見据えて問いかけると、相手が怯むのが分かる。何かしらの目的があって屋上に入りたがっていることは理解出来るだろうが、若葉が主張する通り、あの空間には貴重なものなど何一つ置かれていない。断固として侵入を拒むほどの場所ではないのだ。 とはいえ、何かが起きてしまえば責任を問われるのは必至。彼は目の前にいる若葉をいかにしてやり過ごそうかを懸命に悩む素振りを見せた。結局は鍵を渡すしか逃れる方法はないのに、若葉からすれば悪あがきでしかない。 「今ならアンタが生徒と付き合ってるってのは皆にナイショにしてあげるけど、どーする?」 この無駄なやりとりを切り上げるために寮監の抱える秘密をチラつかせれば、あっさりと鍵が手元にやってくる。ちゃんと返してやると約束してやれば、鍵が戻ってくる喜びよりも若葉とまた会わなければならないことが彼を憂鬱にさせたようだった。 しかし、屋上から役員のフロアに忍び込むなんてさすがに考えてもみなかった。校舎と違って寮の屋上は常に施錠されているし、高い柵が張り巡らされている。それにそこから無事に階下に飛び降りられても、窓を破るという手間が発生する。それならもっと別の場所でターゲットを捕まえたほうがよほど楽だと思うからだ。 でもちっとも一人にならない葵が、ああして転がっているのかもしれないのだからこの好機を逃すのは惜しい。

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