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act.8月虹ワルツ<274>

若葉は体格の割に身軽だという自負がある。足場のない中で背の高い柵の上によじ登ることも、細いバルコニーの手すりに飛び降りることも、大した苦労もなく成し遂げられた。 「ホントに寝てやがる。すげぇなコイツ。馬鹿なの?」 目の前の光景は遠目で見た時よりもずっと異様なものだった。クマのぬいぐるみに頭を預けていたのは、予想通り葵。きちんとパジャマを身につけているし、ブランケットまで用意しているということは、うっかり眠ってしまったというわけではないのだろう。 それに若葉を不思議がらせるのは、葵がもう一体いたぬいぐるみを抱えながらうなされていること。目元を真っ赤に腫らし、ぐすぐすと鼻を啜っている。でもある程度深い眠りにはついているらしい。若葉が隣に降り立っても、気が付く様子はない。 「番犬がいくらいたって、お姫サマがこれじゃあネ」 セキュリティレベルの高い場所に引っ越しをさせたり、学園内の移動には常に誰かが傍に寄り添っていたりと、葵の周りの人間たちが警戒心を強めて行動しているのは分かる。でも本人に自衛する意思がなければ意味がない。葵だって、扉以外の場所から誰かに侵入されるなんて思ってもみなかったのだろうけれど。 あの日抱き上げた時にも思ったが、葵の体は驚くほど軽い。傍に転がっているぬいぐるみのように、中に綿でも詰まっているのかと感じるほど。 「……んん」 自分を抱える腕を拒むどころか、葵はまるで待ち侘びていたかのように擦り寄ってきた。それが若葉の機嫌をさらに良くさせる。目を覚ましたら今度こそ怯えた顔を見せるのか、それともあの夜のように縋ってくるのか。どちらに転んでも構わない。葵はもう十分若葉の意表をついて楽しませてくれている。 窓から侵入した室内は、ベッドとサイドテーブルぐらいしか家具がない。あとは壁に掛かった絵画がいやに目を引くが、全体的には質素な印象を与えた。 若葉は葵を一度ベッドに落とすと、バルコニーに寝転んだままのぬいぐるみを回収しに向かう。 もしも同じフロアの誰かがバルコニーに出たら、この部屋の異変には真っ先に気が付くだろう。夜も随分更けた時間ではあるが、ピアノの音色が聞こえるということは誰かが確実に起きている。乗り込まれて、また邪魔をされても面倒だ。 バルコニーには葵の携帯も転がっていた。パスコードの認証も求められずに画面が開いたことで、葵の無防備さに呆れすら感じてしまう。若葉にとっては都合がいいが、周りは随分苦労させられていることだろう。 持ち主に断りなく携帯をいじりながらベッドに戻ると、葵は離れていった温もりを追い求めるように腕を伸ばしていた。 「パ、パ……パパ」 「葵チャン、ファザコンなの?」 ぬいぐるみを抱いて寝るぐらいだ。見た目だけでなく、精神的にも随分幼いらしい。葵を取り囲む番犬の誰でもなく父親の名前を呼ぶとは。つくづく若葉の予想を裏切る面白い奴だと思わせる。

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