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act.8月虹ワルツ<275>

葵の様子を横目に、ベッドに腰を下ろした若葉は葵の携帯番号やメッセージアプリのID、メールアドレスを自身の携帯に移していく。直接接触する手段を複数得られただけでも、乗り込んできた甲斐があった。 今葵の携帯を使って冬耶に連絡を取ったら、彼はどうするだろうか。そんな好奇心が湧き上がってくるが、葵をじっくり食らうのが先だ。 誰の邪魔も入らない状況で無防備な獲物がベッドに転がっている状態。悪夢に襲われて泣きじゃくっているのは少々興が削がれる気はするが、前回だって似たようなものだった。 「……パパ、ごめんなさい」 荒い呼吸に混ざって懺悔の声が聞こえてきたことに気が付き、若葉は葵に視線を戻した。天に向かって伸ばされていた腕はいつのまにか彼の口元に当てられている。嗚咽を堪えるためのものかと思ったが、なにやら様子がおかしい。 緩いパジャマの袖から現れた手首に歯を立てているのだ。甘噛みなんてぬるいものじゃない。肌を破って血を滲ませるほど強い力。 「おいおい、ファザコンな上に自傷癖あんのかよ」 今から葵を傷付けるのは若葉だったはず。それすら先を越されるなんて、本当に理解の及ばない存在だ。 「葵チャン、いい加減起きな」 「ぅ、あッ……パ、パ」 咥えられた腕を引っ張り、もう片方の手で頬をペチペチと叩いてやるとようやく葵の瞼が開かれる。先刻若葉が可愛がっていた子猫のような色をした瞳がこちらを向いた。だが意識は覚醒しきらないらしい。 「パパ、パパ」 「お前のパパ、こんなんなの?ヤベェな」 葵は自分を覗き込む男を父親だと思い込んで必死に抱き付いてくる。赤髪に金色の目、随分特徴的な容姿をしているはずなのに、違和感を覚えないなんてよほど混乱しているらしい。若葉が茶化すようなことを言っても、葵にはちっとも通じない。 ようやく会えたと言わんばかりにしがみついてくる葵を、仕方なく若葉からも抱き返してやった。 葵は遠慮なく若葉のシャツに顔を押し付け、涙を拭いてくる。暗い色だから目立たないものの、彼の手首の傷跡から滲む血まで染み込んでいる気がする。 普通ならこんな行為を許すはずがないのに、これ以上ないぐらい泣いている葵を更に追い詰め泣かせたところで何の旨みもない。 「あーあ、思いっきり汚しやがって。これも弁償させるよ?」 若葉の認識では葵に貸したままになっているパーカーの存在も匂わせて詰ってみるが、大した反応は返ってこなかった。 一体何をやっているのだろう。スンと甘えるように鼻を啜ってぴたりと抱きついてくる葵を、あぐらをかいた己の上に横抱きにしながら若葉は自問自答する。馬鹿らしい。そう思うのに、不思議と嫌な気はしない。 こうして間近で観察すると、彼の髪の色も瞳同様随分珍しい色をしているのだと実感させられる。今は常夜灯や、ベッドサイドに置かれたランプの橙色の光を反射して黄色みが強く感じられるが、太陽の下ではもっと白に近いブロンドに見えた。 「いい毛並みしてんネ」 猫を撫でる時のように耳の裏あたりに指を這わせると、葵が大きく肩を揺らした。でも拒む様子はなく、むしろもっと撫でられたがるように若葉の肩口にぐりぐりと額を寄せてくる。家にいる猫たちと似たような反応を見せる葵に、若葉の機嫌はますます良くなった。

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